我が国には「体育の日」という国民の祝日があります。それは1964年の東京オリンピックを記念して設けられた祭日で、現在では10月の第2月曜日と定められています。
オリンピックは世界のスポーツの祭典ですが、そのスポーツの記念日を日本では「体育の日」と名づけました。他にも英語ではNational Sports
Festivalと呼ぶイベントを「国民体育大会」と呼んだり、Japan Sports Associationというスポーツ団体を「日本体育協会」と呼んだりしているため、我が国では「スポーツ=体育」と考える人が今も多いようです。しかし、これは大きな間違いです。
体育は英語では「フィジカル・エデュケーション」。文字通り「身体教育」という意味で、スポーツと体育はまったく別の種類の概念なのです。
では、スポーツとは、どういう意味なのでしょうか? スポーツの語源、元の言葉はラテン語のデポラターレ。日常生活の労働から離れた自由な遊びの時空間、つまり余暇、レジャー、祭り、遊び…といった意味です。
その言葉がディスポルトと変化し、スポーツとなります。ですから、日常生活から離れた遊びの時空間というのがスポーツの本来の意味で、そこには、冗談、気晴らし、戯れ……といった意味もあります。
その言葉が日本に伝わったのは明治時代初期の文明開化と言われた時代で、スポーツは他の多くの欧米の文明や文化と共に日本に伝わりました。そして明治の日本人はそれら外国語の文明や文化を様々な日本語に翻訳し、消化吸収しました。民主主義、社会主義、政府、内閣、株式会社、蒸気機関車……といった言葉もすべて外国の文化文明の翻訳語として生まれ、日本語として定着したものです。
そんななかでスポーツという外国語も日本へ伝わります。その最初の翻訳語として登場するのは「釣り」という言葉です。おそらく英語のできる日本人が、川か海で釣り糸を垂れている外国人に向かってWhat
are you doing? 何をしてるんだ? と訊いたのでしょう。するとI'm playing a sport. という答えが返ってきた。そこで、釣りはスポーツと言うんだ、スポーツとは釣りなんだと理解したのでしょう。ところがその直後にスポーツに対して「乗馬」という翻訳語が登場します。これも、馬に乗ってる外国人にWhat
are you doing? と訊いたらI'm playing a sport. という答えが返ってきた。だから「スポーツ=乗馬」と翻訳したのでしょう。
ここで明治の人は大いに悩んだはずです。釣りも乗馬もスポーツならば、そもそもスポーツってなんだ? というわけです。
それから少し後の明治16年1883年になって東京大学の教授として赴任していたフレデリック・ウィリアム・ストレンジという人物が「Outdoor Games」という本を出版します。その本でストレンジは、陸上競技の競走、幅跳び、高跳び、ハンマー投げなどや、水泳のクロールや背泳ぎ、それにフットボール、クリケット、ベースボール、テニスなどの様々なゲームを「スポーツ」として紹介しました。この「Outdor
Games」が「戸外遊技法」という題名で翻訳出版されたことから、ゲームやスポーツに「遊戯」という翻訳語が使われ、ここで少々困ったことが起きます。
陸上競技や体操や水泳などの様々なスポーツは、明治時代の富国強兵の国策に則り、兵隊の訓練や兵士予備軍としての男子学生や生徒の身体を鍛えるために活用されていたのです。そのスポーツを「遊戯」と呼ぶのは不適切ということで、「運動」「体育」といった言葉が使われるようになります。
さらに軍国主義の世の中となった戦前の日本では、軍事教練と体育教育が一体化するようになり、第二次大戦が終わって戦後民主主義の時代が訪れても「スポーツ=体育」という考えが残り、日本のスポーツは命令と服従といった規則や体罰を伴う訓練など、少々軍隊式のスタイルを残したまま学校体育と結びついて発展しました。
その根本的な原因としてはスポーツという言葉に適当な日本語が存在しなかったこともありますが、我が国では欧米のように地域社会の中のスポーツクラブが発達せず、スポーツを行うには学校の施設を利用し学校の体育の先生がスポーツを教える以外になかった、つまり「スポーツ=体育」として発展する以外になかった、とも言えます。
先に説明したようにスポーツには日常生活から離れた「遊びの時空間」という意味があります。つまりスポーツの根本にあるのは自由な遊びで、自主性、自発性というのが基本になっています。やりたいからやる。やりたくないならやらない。それがスポーツです。
しかし体育となると、そういうわけにはいきません。青少年の身体を強く鍛える体育教育は、軍国主義教育でなくても青少年を心身共に強い人間に育てるうえで大切な教育と言えます。だから体育の教師はある程度強制的な指導をします。が、それは自主的自発的に行うスポーツとは、まったく別の種類のものだと理解しておくべきでしょう。
またスポーツという文化には、体育という教育だけでなく、知識を豊かにする知育としての教育や、豊かな人間に成長するための道徳を学ぶ徳育としての教育といった教育的側面も備わっています。
たとえばフットボールという球戯の歴史を語るには古代メソポタミアの太陽の奪い合い、つまり丸い物を太陽に見立てて奪い合い、世界の支配者となることを争ったゲームまで起源を遡ります。それが、ローマ帝国のカルチョ、中世フランスのラ・シュールといったボールゲームを経て、イギリスに伝わり産業革命のときの民衆の抗議の暴動などと一体化するなかで発展した……といったことを学ぶと、フットボールはヨーロッパの民衆の歴史そのもの表していることがわかります。
またアメリカで発展したベースボールの歴史はアメリカの歴史を語るうえで欠かせません。それに、南北戦争のあとアメリカで生まれたバスケットボールやバレーボールやアメリカンフットボールの歴史を学ぶと、そのままアメリカという国の成り立ちを学ぶことに繋がります。さらに古代ギリシアと近代イギリスという二つの地域で世界に先駆けてスポーツが生まれたことを学ぶと、スポーツというルールや組織が成立するには民主主義という政治制度が深く関わっていることを学ぶことにもなります。
同様に徳育つまり道徳教育については、スポーツマンシップという言葉を考えるだけで十分でしょう。スポーツマンシップが発揮された実例はオリンピックやワールドカップに数多くあります。その実例から人間として生きる道を学ぶこともできるはずです。
ところが「スポーツ=体育」だけに、スポーツを狭めて考えてしまうと、スポーツという素晴らしい文化の三分の一の価値しか活用しないことになるのです。
5年後の2020年には東京で2度目のオリンピック・パラリンピックが開かれます。前回1964年のオリンピック・パラリンピックでは、輸入文化であるスポーツに対する理解が進まないまま「スポーツ=体育」という誤解が広まってしまいました。しかし、2度目の2020年の大会では、その誤解を解き、豊かなスポーツという文化に対する理解を深めることも大切ではないでしょうか。
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