朝七時前に起きてちいさな電器屋のシャッターをあけ、約一時間かけて店を掃除する。まるで舌でなめたかと思えるほど、隅から隅まできれいに掃ききよめ、拭ききよめる。わたしの母は、京都祇園町の一角で、そんな生活を一日も休むことなく五十年近くつづけている。
朝だけではない。掃除をし、洗濯をし、買い物をし、食事をつくり、着物を縫い、店番をし、電気器具の修繕をし、配達をし、請求書を書き、子供二人の世話をする。けっして大柄ではないが、いかにも頑丈そうな骨太のからだをつねに動かし、彼女は朝から晩までせっせと働いている。
わたしは大学にはいって東京での下宿生活をはじめるまで、家のなかで埃(ほこり)というものを見たことがなかった。と同時に、化粧をした母親の顔というものも、見たことがなかった。
「なんかウマイもんでも食いにいくか」
親父がそんなふうに誘っても、彼女は、
「いかへん」
と、首をふる。
「つまらん奴っちゃな。たまにはつきあえ」
そういわれても、毅然として、
「そないに気ぃつこうてもらわいでも結構。ほっといて」
と、いいはなつ。
黙々と耐えるというのではない。よく喋り、よく動き、よく働く。
わたしは、物心のついたころから、大正うまれの女とはこれほどエネルギッシュで生産的なものかと呆れるほかなかった。
もっとも、母の意外な一面というものを、見たことがないわけではない。
わたしが小学四年生のころ、家族で比叡山にのぼったときのことである。
「怖いからいやや」という母ひとりをのこしてお化け屋敷にはいった。ところが外へ出てみると。母がいない。さんざんさがしまわったあげく見つけたのは、くわえ煙草でパチンコ台に向かっている彼女の姿だった。当時の手動式のパチンコ台に左手で玉を入れつつ右手でバネをはじく姿は、なかなか堂に入ったもので、受け皿には玉がたっぷりあふれていた。
そして、唖然として背後で立ちすくんでいるわたしに気づくと、ちょっと照れた様子を見せ、
「あかん、ピース三個だけや」
と、いった。
京都随一の繁華街のど真ん中に暮らしながら、そんな母の姿を見たのは、後にも先にもこの一瞬だけである。
彼女にとっての唯一の娯楽は、家のすぐそばにある南座で、年に一度の顔見世を見ることくらいだった。そこで、高校にすすんでから演劇に興味を持つようになったわたしは、いちど南座以外の芝居も見せてやろうと思い、水上勉の『飢餓海峡』にさそった。
すると彼女は、「ほな、まあ、たまには・・・」と、こころよくつきあってくれた。が、芝居を見終わると、苦虫を噛みつぶしたような顔を見せた。そして、戦前から戦後にかけて生きた女の姿を見事に演じきった太地喜和子の演技に感動しているわたしにむかって、こういった。
「あんなもんの、どこがおもしろいねん。あんなもん、わざわざ芝居で見んかって、あてら、現実に、よう知ってますがな。あんなもん見るくらいやったら、松緑はんの舞でも見たほうがよっぽどよかった・・・」
最近わたしは、もっとも近しい人物であるはずの母親の過去というものを何も知らないことに気づき、ちょいとばかり愕然としている。 |