私が生まれ育ったのは、京都南座の裏、「祇園の台所」ともいうべき商店街の一角で、わが家は小さな電器屋を営んでいました。小学生の頃は、毎日学校が終わると、鞄を家の中に放り投げて、すぐ近くのある建仁寺の境内で、日の暮れるまで草野球に熱中していたものです。
しかし、建仁寺のすぐ南側にある六道珍皇寺にはできるだけ近づかず、何かの用事で通りがからなければならなくなった際も、目をつぶって駆け抜けていました。ここに祀られている閻魔大王の形相、存在が怖くて仕方なかったのです。
珍皇寺は、お盆の時期になると祭りのような賑わいを見せます。京の人が「六道参り」と呼ぶ、ご先祖様の精霊を迎える行事です。水塔婆に亡き人の戒名を書いてもらい、高野槙(こうやまき)の葉で水を注ぎ、境内にある「迎え鐘」をついて霊を呼び戻すのです。
わが家でも、一歳半で亡くなった姉の霊を迎えるため、毎年一家揃って出かけていました。でも私の記憶に残っているのは、そんな風習ではなく、とにかく怖ろしい閻魔さんでした。満足に身動きが取れないほどの人混みでごった返しているなか、母親に肩を押されて閻魔さんの前まで進まされ、無理矢理顔を見せられることになるのです。
クワッと開いた口、左右アンバランスに吊り上がった眉、大きく剥いた眼。あまりの怖ろしさに泣きだすこともできません。そんな幼い私に向かって母親は、「うそをついたら、あの閻魔さんに舌を抜かれるのやで」と、追い打ちを掛けるように何度も告げました。「うちは電器屋やからペンチもあるし……」と言われて、震えあがったものでした。
しかし、そんな閻魔様も、歳をとってあらためて眺めてみると、なかなかいいものです。その怒りの顔には、怖かった父親のイメージが重なり、親しみさえ感じます。
じつは一昨年、ここの境内に父親の墓を建てることができました。その折、珍皇寺は平安前期の漢詩人として有名な小野篁(おののたかむら)ゆかりの寺でもあり、お堂のなかには閻魔様の横に篁の像もあることを初めて知りました。
小野の篁は漢詩だけでなく和歌にも優れ、また柔術や剣術、乗馬などにも秀でた、まさに文武両道の達人だったと伝えられています。いまでいう官僚でもあったわけですが、束縛を嫌う奔放な性格で、身体も大きく、180センチほどあり、遣唐使の副使に任命されたのに、それを断ったことで隠岐に流されたりもしています。
さらに篁は、説話の世界でも、昼は朝廷に勤め、夜は冥府の閻魔庁に出勤していた奇妙な人物として語られています。珍皇寺本堂の裏庭の奥には、篁が冥府に通ったと伝えられる「六道の辻の井戸」もあります。
御住職(私たちは「おっさん=和尚さんの略」と呼んでますが)の坂井田興道さんのお話では、冥府での篁は、閻魔様の横で、「裁き」の手伝いをしていたとか。しかも裁判官である閻魔様に対して、弁護士のような役目だったというのです。
それを聞いて私は、ますますうれしくなりました。小野篁なら(何故か非常に親近感が湧いて)私のような者に対しても、罪が一等くらい軽減されるような弁護をしてくれそうな気もします。
閻魔様と篁の会話を聞く私……、いつかこのお墓に入る日のことを想像すると、ちょっとばかりワクワクした気分にもなってくるのでした。 |