「子どもは大人の鏡」という言葉は、おそらく正しい。では現代の子どもたちは、大人たちの「どんな姿」を映し出しているのだろう?
著者は「子どもたちにとって遊びとは何か?」を研究し、キャンプなどを通して実践的に子どもたちと関わるなかで、本書のタイトルにもなっている《「かくれんぼ」のできない子どもたち》と出逢う。
そもそも「かくれんぼ」は《怖い遊び》だ。鬼に見つからないよう《危険な場所》を選び、一人で息を潜めていなければならない。さらに《恐る恐る出てきたら、もう「かくれんぼ」は終わっていて、みんな帰ってしまっていた》ということもありうる。
《ただ、孤独から逃れる方法を身につけるのは、子どものころに「かくれんぼ」のような遊びで十分に孤独感を味わい、そのことに逃げずに向き合って初めて獲得するものである》と、著者は書く。
ところが《いつも誰かと繋がってます》というCMとともに、携帯電話が子どもたちの間にも浸透する。
《しかし一方で、彼らは携帯を持つことによって、もし誰からもかかってこなかったらどうしようという「不安感」、かけても出なかったときの相手に対する「不信感」、新しい機能が使えないこと、あるいは電波が届かない地域に対する「不満感」が発生する》
さらにメール中心のコミュニケーションをする学生たちは、携帯電話で話すことを《生(なま)で話をした》という。《生放送と同じ意味で、(略)同じ時間を共有していること》だから《なま》なのである。
《コインを入れてボタンを押すだけで、自分の欲しいものは手に入れることができる》ように《社会全体が、コミュニケーションを必要としない社会になったために(略)このような社会で育った子どもが、何かあっても、誰かに話をすることはなく、孤立感に陥るのは当然のことかもしれ》ず、《「かくれんぼ」ができない子どもたちは、このように孤立化、個別化するわれわれの社会のあり方に警告を発しているように思えてならない》
もちろん、ここで紹介できるのは、著者の犀利な考察のほんの一部分である。
著者はさらに《「この指とまれ」ができない子どもたち》《「ブランコ」がこげない子どもたち》へと話を発展させ、《「私的仲間」と遊ぶことはできるが、「公共的仲間」をつくっては、なかなか遊べない》現代の子どもたちが、《処理すべき情報量が非常に多》く《なかなか楽しくならないのが特徴》である《身体遊び》を避け、《身体的な安全が担保され》《怪我をすることもなく、身体で痛さを感じることもなく、相手への力加減もいらない》PCゲームに熱中する必然性を考察する。
そのような読んで面白い考察や分析も山ほどあるが、時に子どもへの具体的対処の仕方に触れているのも、本書の特徴ともいえる。
《道路で遊んでいる子どもたちのところに車が入ってきたら、多くの親たちはたいがい「危ない」と叫ぶ。すると子どもたちは車も見ずに一斉に道路の端による。このとき、「車が来たよ」という事実だけを伝えたら(略)子どもたちは(略)危ないかどうかを自分で判断して、その危険を避ける方法を自分で取るだろう。この声かけのちがいが、子どものリスクマネジメントを育てるかどうかの分かれ道なのである》
明快な論理とシンプルな考察は、子どもたちとのキャンプなどの実践があればこそだろう。その実践の具体的様子が本書の後半に書かれている。そこから著者は、友だちという《横の関係》中心で、親や先生といった《縦の関係》が希薄と言われる現代社会で、《斜めの関係》として《筋交い》の役割を果たす《社会的親》の必要性と再生を訴える。
実践による「子ども論」から現代大人社会を映し出した快著といえる。 |