伝統とは、元来ラジカルな(根源的にして過激な)「生き物」のはずである。
ところが江戸東京博物館のようなものがつくられる世の中では、伝統とは、額縁に入れて飾り、ながめ、誉めたたえ、権威を付与したうえで、ときには値踏みまでする「剥製」のようなものとなってしまった。
そんな非常識が、今日この国の常識だとするならば、『楽劇コースケ事務所』なる集団を主宰する野村万之丞は、間違いなく「伝統破壊者」(すなわち「真の伝統継承者」)ということができるだろう。
今年(1995年)の1月、野村耕介が五世野村万之丞を襲名し、野村万蔵家八代目当主を継承する記念会が催された。その案内のパンフレットを手にしたとき、わたしは、思わず快哉を叫びたくなった。というのは、3日間にわたっておこなわれる記念会の初日の最初の演目が、シテ野村史高による『釣狐』、そして最終日の最後の演目が『唐人相撲』となっていたからである。
『唐人相撲』とは、万之丞以下総勢50名を超す役者が能舞台にのぼり、所狭しと暴れまくる抱腹絶倒の大スペクタクル狂言である。『釣狐』が、けっして軽い演目とは思わない。もちろん、つまらない演目とも思わない。が、テレビCMによって流布された「狂言は猿に始まり狐に終わる」というような「常識」と「権威」がアッケラカンと打ち壊されたことに、爽快な心地よさを覚えたのである。
そういえば昨年(1994年)、京都建都千二百年祭の催しとしてコースケ一座が平安神宮で『大田楽』(だいでんがく)を演じたときは、平安京の紫宸殿を模してつくられたふだんは立ち入り禁止の奥の院まで、曲芸師や芸能者の群れが練り歩き、歌い、踊り、跳びはねた。さらに、その『大田楽』でも、また、平安時代の『相撲節会』(すまいのせちえ)を復元上演したときも、コースケは、舞踏や曲芸のバックの音楽に、山下洋輔のフリージャズさながらの即興(インプロヴィゼーション)をもちいた。それを演奏したのは、能管一噌(いっそう)流の新鋭で、ジャズも得意とする鬼才、一噌幸弘だった。
「音楽は、音が資料として残されてないんだから、ある程度自由にやればいいんですよ」
それが、コースケ(万之丞)の理屈である。
『唐人相撲』の舞台でも、新たに作詞作曲された音楽が挿入され、アクロバティックな相撲の視覚効果と芝居の流れが、一段と躍動的なものとなっていた。しかも、その音楽というのが、♪マダマダ〜ミエナイチンチン、ロソロソ〜モリュモリュチンプン、ワロソ〜プ〜チャンカンプン、チ〜ンプ〜ンカンプン・・・・・・としか聞こえないような中国語もどきの歌詞で、観客の大爆笑を誘った。
ところが、あらためてコースケにきくと、それはきちんとした古い中国語だという。
『唐人相撲』とはいったいいかなる狂言か、と考察した結果、要するにチンプンカンプンであるという結論を得たコースケは、チン・プン・カン・プンという言葉を脚韻として織り込んだオリジナルの中国語の歌詞を、北京大学出身の中国人につくってもらった、というのである。
そこから彼の話はインドへ飛び、「アチャラカ」という日本語も、じつは『阿闍梨』(あじゃり)から生まれた言葉で、言語は国境を越える・・・といいだしたかと思うと、話はソシュールの言語学へと移り、言語と肉体表現の関係へと移行し、インド舞踊からジャワのケチャ・ダンス、さらにブータンの仮面劇へと飛躍し、いつの間にかブルガリアの首都ソフィアで体験したインフレとデノミについての講義となり、ドイツで食ったジャガイモの味からイタリア料理のパスタにくわえる香辛料について・・・・・・に至った。
もちろん、たがいに痛飲していた酒席での話題ではあったが、彼がその格闘家のような巨躯(きょく)に詰め込んだ知識と経験とアイデアを次からつぎへと口から吐き出す様は、まるでドラえもんがお腹にある四次元ポケットから次つぎと魔法の道具を取りだすごとし、というほかなかった(学習院高校を卒業後、イタリアのISTA=インターナショナル・スクール・オヴ・シアター・アントロポロジーで、グロトフスキーやピーター・ブルックに師事した人物に対する評価としては、まったく比喩が軽いのは百も承知だが、風貌と楽しさもドラえもんそっくりなのだから仕方ない)。
伝統という生き物を剥製にして飾るのにも、ある種の技術(藝)は必要だろう。が、伝統という生き物と格闘しながら、それを生かしつづける作業のほうが困難であり、有意義でもあり、よほど「力」のある人物でないとできえないこと、といえるにちがいない。が、コースケの、いや、野村万之丞のパワーとポテンシャルならばそれができる、と、わたしは確信している。
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日本文化にとって大いなる損失というほかない人物のあまりに早すぎる死は、あまりに悲しく、悔しいものだった。合掌。 |