コラム「ノンジャンル編」
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掲載日2010-07-07

この原稿は、『調査情報』((株)TBSテレビ発行/(株)TBSメディア研究所編集)2008年5月号に書いたものです。内容はスポーツ番組について考えたものですが、これはメディアの問題なので、「蔵出しコラム」としては「スポーツ編」に入れず、こちらの「ノンジャンル編」に入れました。御一読下さい。

「スポーツ放送はどうあるべきか?」を考える前に、考えるべきこと

 テレビというものは(NHKと民放を問わず)高視聴率を得ることが最大の目標だといわれている。テレビ局で働く人々は、高視聴率を得るために努力をし、その結果に一喜一憂する。

 そのことを「視聴率至上主義」と非難する声もあるが、私は、それを特に悪いことだとは思っていない。多くの人々に見てもらおうと努力するのは基本的に当然のことで、私のように主に活字の世界で仕事をしている物書きでも、一人でも多くの人に読んでもらいたいという強い気持ちで原稿を書いている。

 とはいえ、スポーツ番組では、何が何でも高視聴率をと思う結果、ときに目の前で行われているスポーツから逸脱してしまったと思えるケースもある。

 以前、あるスポーツ中継を見ていると、そのスポーツの内容以上に司会者のタレントや「応援団」と称するタレントたちが大はしゃぎし、あまりにうるさく騒がしく、せっかくのスポーツ競技に水を差したとしか思えない番組があった。そこで、そのことを新聞の連載コラムに、かなり強い筆致で批判的に書いた。

 するとしばらくして、50歳代の女性から丁寧な手紙が届いた。
 自分はスポーツなどまったく興味がなく、そのタレントのファンだからチャンネルを合わせた。すると、そこで見たスポーツが面白く素晴らしいことに気づき、そのスポーツの大ファンになった。私のような人間もいるのです……云々。

 この手紙を送ってくれた女性が、まさか中継局の関係者ではないかということまでは詮索しない(たぶん筆跡から、ふつうの年輩の女性と思われた)が、様々な大勢の視聴者が存在することを考えると、テレビのスポーツ放送がどうあるべきかと考えるのは、ほんとうに難しいことだと思う。

 おそらく、こうあるべき…という理想の姿など存在しないのかもしれない。視聴者の誰かが満足しても、誰かが不満に思う。そういうものに違いない。

 たとえば何年か前にメジャーリーグのワールドシリーズ優勝の瞬間をアメリカのテレビ局の放送で見たことがあった。その中継では、優勝チームの選手たちがフィールド上で抱き合い、跳びはね、走り回る様子が20分以上ものあいだ延々と映し出された。その間アナウンサーは、まったく一言も喋らず、ただただ選手たちの歓喜にあふれた表情だけが、映像で流され続けた。

 私は、その中継をじっと見つめながら、本当に素晴らしい歓喜の瞬間だと思うと同時に、本当に素晴らしい放送だと心の底から感心した。が、同じことを日本シリーズの優勝の瞬間に、日本のテレビ局が行ったとしたら、おそらく日本の視聴者のなかからは、まったく何も喋らないのは手抜きであるとか、選手に早くインタヴューをしろ、といった声も出てくるに違いない。

 そういえば、もう10年以上も前のことになるが、これもメジャーリーグの中継で、面白い出来事があった。その試合が行われたスタジアムは、放送ブース付近にファウルボールが数多く飛んでくることで有名だったらしく、アメリカの放送局のアナウンサーと解説者は放送席から上半身を乗り出し、持参した虫取り網の持った手を伸ばしてファウルボールを捕ろうとする光景が、何度も映し出された。

 その映像を見た日本のアナウンサーが、こういった。
「あんなことをしていて、きちんとした放送はできているんでしょうかねえ」
 もちろん苦笑いしながらのコメントで、さほど強い批判的な口調ではなかったが、いまもこの言葉を記憶しているのは、このときの状況とこの言葉のなかに、スポーツ放送の「本質」に関わる問題が含まれていると思ったからだ。

「きちんとした放送」とは、いったいどういうものなのか?
 虫取り網を振りまわしていたアメリカのアナウンサーと解説者は、ひょっとして、目の前のあまり面白くない試合に飽きて本気で遊んでいたのかもしれない。あるいは、その面白くない試合よりも、ファウルボールをキャッチする瞬間のほうが視聴者に喜ばれる(高視聴率が取れる)と思って、確信犯的に虫取り網を振りまわしていたのかもしれない。

 しかし、きわめて善意に解釈するならば、虫取り網でボールを捕ろうとしていたアナウンサーと解説者の行為は、メジャーリーグの「現場」の楽しさを、最大限に表現したものだった、とも思える。

 アメリカのスタジアム(ボールパーク)を訪れたことのある人なら、その楽しさを御存知だろうが、ビールを飲みながらホットドッグをパクつき、あるいは応援する選手の名前を書いたプラカードを頭の上に掲げて叫び、さらに近くに飛んできたファウルボールに手を伸ばして奪い合い、そして7回裏になると観客全員がが立ちあがって”Take me out to the ball park”を歌い、誰もが思い思いにベースボール・ゲームを楽しんでいる。

 応援しているチーム(ホームチーム)が勝てばさらに嬉しく、負ければ悔しく、応援している選手が活躍すればさらに楽しく、凡打に終われば悔しくもあり悲しくもあるが、そんなこと以上に、誰もがボールパークでボールゲームを楽しんでいる。そのボールパークの楽しさを、そのままテレビ中継を通じて視聴者に伝えようとするなら、アナウンサーと解説者が持ち出した「虫取り網」は、きわめてリーズナブルであり効果的だったといえるだろう。

 それに対して、日本のアナウンサーが(思わず)口にした「きちんとした放送」とは、いったいどのようなものといえるだろう?

 日本のテレビ局の野球中継は、アメリカのテレビ局のものより格段に「詳しい」。投手の投げる球種、狙っているコース、次の一投の予想…。さらに打者の狙うべき球種やコース、打つべきコースや、そのための構え方…。走者が出れば、バントや盗塁やヒットエンドランなどの選ぶべき作戦…等々について、時には図表まで用い、過去のデータを駆使して、微に入り細を穿った解説がなされる。

 野球以外のスポーツ中継でも、技術や戦術、フォームの分析などが多い。では、そのような「詳しい解説」が、何のために行われるのか?

 視聴者の多くは野球(スポーツ)選手でなく、監督でもない。なのにそのような「解説」がなされるは、もちろん、そのような技術や戦術を知ることができれば、スポーツをより深く、より楽しく見ることができるからでもあるだろう。

 しかし、先に紹介したアメリカのテレビ局の「虫取り網」と同様、それはきわめて善意に解釈したもので、実際にはそこまで深くは考えずに、スポーツ(野球)の解説とは昔からそういうものだから続けている、というのが実状だろう。
 では、なぜ、昔からそうだったのか?

 それは野球に限らず、日本のスポーツ全般が、「体育」として教育のなかで発展したことと無縁ではないだろう。

 最近では幼稚園児がサッカークラブや野球クラブや体操・水泳教室などに通ってスポーツを楽しむことも珍しくなくなった。が、かつて、ほとんどすべての日本人が初めてスポーツと接したのは、学校の体育の授業であり、そこで体育の先生から、速く走るためのフォーム、鉄棒の握り方、ソフトボールの投げ方、バットの握り方、サッカーボールの蹴り方、バスケットボールのパスの仕方…等々を「学んだ」。そしてさらに技術を向上させるための練習方法や、相手に勝つための先方や戦術を「学んだ」。

 テレビのスポーツ放送も、そのような「体育」の延長線上に位置し、より高い技術や高度な戦術を身につけ、相手に勝利することを評価し、そのための「解説」がなされたのだ。

 現在ではほとんど存在しなくなったが、かつてNHKの教育テレビには、野球教室やサッカー教室やラグビー教室、さらに水泳教室や陸上競技教室といった番組が数多く存在し、そこでは体育の授業と同様、「先生」がスポーツの技術や戦術を「指導」していた。

 また、かつてNET(日本教育テレビ=現在のテレビ朝日)が郵政省(現・総務省)からテレビ放送の認可を受けたときは、50パーセント以上の番組を教育関係の番組とするという条件をクリヤーするために、高校野球だけでなくプロ野球中継も「教育番組」として申請し、認められたという経緯もある。

 見る人もやる人も、自発的に楽しむことが基本であるスポーツに対して、教育としての体育は、青少年の体力向上を目的とし、強制的に学ばされるものである。そのように本来はまったく異なる二種類の身体活動を、「スポーツ=体育」と誤解し、長年にわたってその相違を意識しなかった結果、「スポーツは体育とは別のもの(のようだ)」という認識がかなり広がった今日でも、あらゆるスポーツ中継に体育的(教育的)要素が色濃く残されていると考えられる。

 つまり、かつて我が国にはスポーツが存在せず、体育しか存在しなかった。しかも「兵士を育てる」ために体育教育が行われた期間も長かった。そこで必然的に、それを中継放送するテレビ局にも、体育放送しか存在せず、スポーツ放送は存在しなかった、という言い方ができそうだ。

 Jリーグが誕生し、その中継が始まった1993年には、「髪の毛を金髪に染めている選手がいるのはスポーツマンらしくない」とか、「カズ・ダンスはやめさせるべきだ」といった批判(?)の声も聞かれた。それも、日本人のスポーツ観が体育という枠から脱しきれなかった結果といえるだろう。

 逆に、多くのタレントを動員してイベントを盛りあげる(ように見せる)スポーツ番組は、体育放送からの逸脱が許されて勢いがつきすぎ、ヴァラエティ番組化してしまった結果であるようにも思える。

 こうして考えてみると、日本の(体育番組ではない)スポーツ番組の歴史はきわめて浅く、スポーツ番組をどのように作っていいのか、まだ模索している最中、ともいえるだろう。

 そんな現在、スポーツ番組の作り手に求められるのは、スポーツの「何」を伝えようとしているのか、という自覚ではないだろうか。無自覚的に漫然と、スポーツを伝えている、あるいは、スポーツを盛りあげている、というのでは、視聴者にスポーツの面白さや素晴らしさは(おそらく)伝わらない。

 野球というスポーツ、サッカーというスポーツ、その他あらゆるスポーツの、本当の面白さ、本当の素晴らしさを番組の作り手自身がはっきりと自覚し、その最も素晴らしい瞬間を映像と解説で伝えようとする意思と努力が必要なはずだ。

 では、野球やサッカー、その他のスポーツの最も面白く、最も素晴らしい瞬間とは、いったいどういうものなのか?

 それは番組の作り手がそれぞれに勉強し、考え、発見することだろうが、少々大袈裟にいうなら、スポーツという文化に対する一種の哲学的課題ともいえる。

 たとえば、間もなく北京オリンピックが開幕する。その地球上で最も巨大な祭典で、いったい番組の作り手は、「何」をどのように伝えようとするのか? 「何」をどのように伝えることが、北京の現地に足を運ぶことなく茶の間でテレビ画面を見ている人々に、「北京オリンピック」というものの「姿」を伝えることができるのか?

 各競技の中継は、国際映像によるため自由にはならないだろうが、それ以外の部分で、独自に様々な「オリンピックのシーン」を伝えることはできるはずだ。

 また、毎日のように行われているプロ野球の試合は、テレビ番組としてどのように伝えればいいのか? これも考えるべきところ、工夫すべきところは、まだまだ数え切れないくらいあるはずだ。

 また、野球場へ行って野球を見ることの楽しさがテレビの画面からも最大限伝わるようにするべきだ、と考えるなら、たとえば甲子園球場での7回裏に観客がジェット風船を飛ばし、六甲おろしを大合唱する場面は、CMや定時ニュースによってカットすることができないはずだ。仕方なくカットされた場合は、試合の一部をカットしてでも挿入する、となると、その放送には制作者の野球に対する「考え方」が表現されることになる。

 さらに、打球が外野手のあいだを転々と抜け、何人もの走者が一斉にベースを駆け抜けるシーンは、いったいどのようにすれば最も迫力ある放送になるのか? そのときのカメラの位置、切り替え、アナウンサーの言葉、解説者の話し方、話す内容…等々、もういちどゼロから考え直し、野球の最も素晴らしい場面をとらえる工夫を発見する余地は、まだまだ残されていると(私は)思っている。

 何しろ日本の(体育放送でない)スポーツ放送は、まだ始まったばかりなのだ。とはいえ、少々心配なことが一つある。それは、我々日本人にはスポーツに関して知らないことが山ほどあり、学習する機会も少ない、ということである。

 当然、テレビというメディアで働き、スポーツ中継に携わっている人のなかにも、スポーツ(の本質)を知らない人、勉強していない人が、少なくない。
 少々口幅ったい言い方になるが、私自身スポーツライターという肩書きを名乗って30年、スポーツに関する無知を自覚させられる日々の連続だった。

 たとえば、先に書いたスポーツと体育の違いを確かに認識できるようになったのは、15年くらい前のことだった。
「アマチュアリズム」という「スポーツ思想」が、労働者をスポーツに参加させないために貴族や支配者がでっちあげた差別思想であると知ったのも、15年前くらいのことだった。

 また、世界中の様々なスポーツ組織には、スポーツ以外の目的のためにスポーツを利用とする組織と、スポーツそのものを発展振興させるための組織に二分できることを理解し、後者の組織でなければスポーツの真の発展はないことに気づいたのは10年くらい前のことだった。

 そしてスポーツを真に発展振興させることが、平和で豊かな社会を築くことに実践的につながり、人々の幸福につながると確信できるようになったのも、わずか10年くらい前のことだった。

 ここに列挙したことを詳述する紙幅はないが、体育として鉄棒の逆上がりやサッカーのルールを学ぶ機会はあっても、スポーツの歴史やスポーツ組織のあり方等を学ぶ機会がほとんどない我々は(私のようにスポーツライターとして自覚的にスポーツを学ぼうとしない限り)スポーツに対する誤解や誤謬に気づかないまま、目の前のスポーツを「消費」し続けることになりかねない。

 オリンピックで日本人選手がメダルを数多く獲得すれば喜び、少ないと悲しみ、さらには怒り、そして刹那的な興奮を生起させるだけで、すべては過去のこととして忘れ去られる。

 そのような消費されるだけのスポーツを大量に生み出し、次々と消費させているのがテレビというメディアであることは疑う余地がない。もちろんテレビは、より多くの人々にスポーツの素晴らしさを伝える最も有効なメディアであることも事実なのだが、高視聴率を確保できる有力コンテンツとして放送権を持つスポーツばかりを宣伝し放送することが、はたして(日本の)スポーツの発展のために有意義なことといえるのかどうか、首を傾げたくなるケースも少なくない。

 そういったことが(日本の)スポーツの発展にとってマイナスに働くことのないよう、テレビ・メディアに携わる人々には、「スポーツをどう放送するか」を考える前に、まず、「スポーツとは何か?」「スポーツはどうあるべきか?」ということを考え、自らの手で(日本の)スポーツの発展を妨げることのないよう注意していただきたいと思う。

          
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わたしの本棚(4) スポーツを読む

わたしの本棚(3) 祭りの原型

わたしの本棚(2) ドラマの感動

わたしの本棚(1) 振動する快楽

夏休み読書日記/スポーツ・身体・ジャーナリズム

銀行は痰壺処理会社

親父の隠したエロ小説

野村万之丞――伝統と格闘するパワー

女が動く時代、男は思索せよ

バック・オーライ

二十五時――わたしの好きな世界文学

「私の京都」

わたしの東京体験

SPレコードは生演奏と同じ〜蓄音機にはまってしまった!

感銘した一冊の本〜鈴木隆『けんかえれじい』

「情報過多時代」の楽しみ方

内面より外面

不味いものが食いたい!

ああ、肩が凝る。

父の勲章

京の昼寝

祇園町の電器屋の初荷

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