コラム「ノンジャンル編」
HOMEへ戻る
 
表示文字サイズ選択:
標準
拡大
掲載日2010-07-07

この原稿は、『調査情報』((株)TBSテレビ発行/(株)TBSメディア研究所編集)2008年5月号に書いたものです。内容はスポーツ番組について考えたものですが、これはメディアの問題なので、「蔵出しコラム」としては「スポーツ編」に入れず、こちらの「ノンジャンル編」に入れました。御一読下さい。

「スポーツ放送はどうあるべきか?」を考える前に、考えるべきこと

 テレビというものは(NHKと民放を問わず)高視聴率を得ることが最大の目標だといわれている。テレビ局で働く人々は、高視聴率を得るために努力をし、その結果に一喜一憂する。

 そのことを「視聴率至上主義」と非難する声もあるが、私は、それを特に悪いことだとは思っていない。多くの人々に見てもらおうと努力するのは基本的に当然のことで、私のように主に活字の世界で仕事をしている物書きでも、一人でも多くの人に読んでもらいたいという強い気持ちで原稿を書いている。

 とはいえ、スポーツ番組では、何が何でも高視聴率をと思う結果、ときに目の前で行われているスポーツから逸脱してしまったと思えるケースもある。

 以前、あるスポーツ中継を見ていると、そのスポーツの内容以上に司会者のタレントや「応援団」と称するタレントたちが大はしゃぎし、あまりにうるさく騒がしく、せっかくのスポーツ競技に水を差したとしか思えない番組があった。そこで、そのことを新聞の連載コラムに、かなり強い筆致で批判的に書いた。

 するとしばらくして、50歳代の女性から丁寧な手紙が届いた。
 自分はスポーツなどまったく興味がなく、そのタレントのファンだからチャンネルを合わせた。すると、そこで見たスポーツが面白く素晴らしいことに気づき、そのスポーツの大ファンになった。私のような人間もいるのです……云々。

 この手紙を送ってくれた女性が、まさか中継局の関係者ではないかということまでは詮索しない(たぶん筆跡から、ふつうの年輩の女性と思われた)が、様々な大勢の視聴者が存在することを考えると、テレビのスポーツ放送がどうあるべきかと考えるのは、ほんとうに難しいことだと思う。

 おそらく、こうあるべき…という理想の姿など存在しないのかもしれない。視聴者の誰かが満足しても、誰かが不満に思う。そういうものに違いない。

 たとえば何年か前にメジャーリーグのワールドシリーズ優勝の瞬間をアメリカのテレビ局の放送で見たことがあった。その中継では、優勝チームの選手たちがフィールド上で抱き合い、跳びはね、走り回る様子が20分以上ものあいだ延々と映し出された。その間アナウンサーは、まったく一言も喋らず、ただただ選手たちの歓喜にあふれた表情だけが、映像で流され続けた。

 私は、その中継をじっと見つめながら、本当に素晴らしい歓喜の瞬間だと思うと同時に、本当に素晴らしい放送だと心の底から感心した。が、同じことを日本シリーズの優勝の瞬間に、日本のテレビ局が行ったとしたら、おそらく日本の視聴者のなかからは、まったく何も喋らないのは手抜きであるとか、選手に早くインタヴューをしろ、といった声も出てくるに違いない。

 そういえば、もう10年以上も前のことになるが、これもメジャーリーグの中継で、面白い出来事があった。その試合が行われたスタジアムは、放送ブース付近にファウルボールが数多く飛んでくることで有名だったらしく、アメリカの放送局のアナウンサーと解説者は放送席から上半身を乗り出し、持参した虫取り網の持った手を伸ばしてファウルボールを捕ろうとする光景が、何度も映し出された。

 その映像を見た日本のアナウンサーが、こういった。
「あんなことをしていて、きちんとした放送はできているんでしょうかねえ」
 もちろん苦笑いしながらのコメントで、さほど強い批判的な口調ではなかったが、いまもこの言葉を記憶しているのは、このときの状況とこの言葉のなかに、スポーツ放送の「本質」に関わる問題が含まれていると思ったからだ。

「きちんとした放送」とは、いったいどういうものなのか?
 虫取り網を振りまわしていたアメリカのアナウンサーと解説者は、ひょっとして、目の前のあまり面白くない試合に飽きて本気で遊んでいたのかもしれない。あるいは、その面白くない試合よりも、ファウルボールをキャッチする瞬間のほうが視聴者に喜ばれる(高視聴率が取れる)と思って、確信犯的に虫取り網を振りまわしていたのかもしれない。

 しかし、きわめて善意に解釈するならば、虫取り網でボールを捕ろうとしていたアナウンサーと解説者の行為は、メジャーリーグの「現場」の楽しさを、最大限に表現したものだった、とも思える。

 アメリカのスタジアム(ボールパーク)を訪れたことのある人なら、その楽しさを御存知だろうが、ビールを飲みながらホットドッグをパクつき、あるいは応援する選手の名前を書いたプラカードを頭の上に掲げて叫び、さらに近くに飛んできたファウルボールに手を伸ばして奪い合い、そして7回裏になると観客全員がが立ちあがって”Take me out to the ball park”を歌い、誰もが思い思いにベースボール・ゲームを楽しんでいる。

 応援しているチーム(ホームチーム)が勝てばさらに嬉しく、負ければ悔しく、応援している選手が活躍すればさらに楽しく、凡打に終われば悔しくもあり悲しくもあるが、そんなこと以上に、誰もがボールパークでボールゲームを楽しんでいる。そのボールパークの楽しさを、そのままテレビ中継を通じて視聴者に伝えようとするなら、アナウンサーと解説者が持ち出した「虫取り網」は、きわめてリーズナブルであり効果的だったといえるだろう。

 それに対して、日本のアナウンサーが(思わず)口にした「きちんとした放送」とは、いったいどのようなものといえるだろう?

 日本のテレビ局の野球中継は、アメリカのテレビ局のものより格段に「詳しい」。投手の投げる球種、狙っているコース、次の一投の予想…。さらに打者の狙うべき球種やコース、打つべきコースや、そのための構え方…。走者が出れば、バントや盗塁やヒットエンドランなどの選ぶべき作戦…等々について、時には図表まで用い、過去のデータを駆使して、微に入り細を穿った解説がなされる。

 野球以外のスポーツ中継でも、技術や戦術、フォームの分析などが多い。では、そのような「詳しい解説」が、何のために行われるのか?

 視聴者の多くは野球(スポーツ)選手でなく、監督でもない。なのにそのような「解説」がなされるは、もちろん、そのような技術や戦術を知ることができれば、スポーツをより深く、より楽しく見ることができるからでもあるだろう。

 しかし、先に紹介したアメリカのテレビ局の「虫取り網」と同様、それはきわめて善意に解釈したもので、実際にはそこまで深くは考えずに、スポーツ(野球)の解説とは昔からそういうものだから続けている、というのが実状だろう。
 では、なぜ、昔からそうだったのか?

 それは野球に限らず、日本のスポーツ全般が、「体育」として教育のなかで発展したことと無縁ではないだろう。

 最近では幼稚園児がサッカークラブや野球クラブや体操・水泳教室などに通ってスポーツを楽しむことも珍しくなくなった。が、かつて、ほとんどすべての日本人が初めてスポーツと接したのは、学校の体育の授業であり、そこで体育の先生から、速く走るためのフォーム、鉄棒の握り方、ソフトボールの投げ方、バットの握り方、サッカーボールの蹴り方、バスケットボールのパスの仕方…等々を「学んだ」。そしてさらに技術を向上させるための練習方法や、相手に勝つための先方や戦術を「学んだ」。

 テレビのスポーツ放送も、そのような「体育」の延長線上に位置し、より高い技術や高度な戦術を身につけ、相手に勝利することを評価し、そのための「解説」がなされたのだ。

 現在ではほとんど存在しなくなったが、かつてNHKの教育テレビには、野球教室やサッカー教室やラグビー教室、さらに水泳教室や陸上競技教室といった番組が数多く存在し、そこでは体育の授業と同様、「先生」がスポーツの技術や戦術を「指導」していた。

 また、かつてNET(日本教育テレビ=現在のテレビ朝日)が郵政省(現・総務省)からテレビ放送の認可を受けたときは、50パーセント以上の番組を教育関係の番組とするという条件をクリヤーするために、高校野球だけでなくプロ野球中継も「教育番組」として申請し、認められたという経緯もある。

 見る人もやる人も、自発的に楽しむことが基本であるスポーツに対して、教育としての体育は、青少年の体力向上を目的とし、強制的に学ばされるものである。そのように本来はまったく異なる二種類の身体活動を、「スポーツ=体育」と誤解し、長年にわたってその相違を意識しなかった結果、「スポーツは体育とは別のもの(のようだ)」という認識がかなり広がった今日でも、あらゆるスポーツ中継に体育的(教育的)要素が色濃く残されていると考えられる。

 つまり、かつて我が国にはスポーツが存在せず、体育しか存在しなかった。しかも「兵士を育てる」ために体育教育が行われた期間も長かった。そこで必然的に、それを中継放送するテレビ局にも、体育放送しか存在せず、スポーツ放送は存在しなかった、という言い方ができそうだ。

 Jリーグが誕生し、その中継が始まった1993年には、「髪の毛を金髪に染めている選手がいるのはスポーツマンらしくない」とか、「カズ・ダンスはやめさせるべきだ」といった批判(?)の声も聞かれた。それも、日本人のスポーツ観が体育という枠から脱しきれなかった結果といえるだろう。

 逆に、多くのタレントを動員してイベントを盛りあげる(ように見せる)スポーツ番組は、体育放送からの逸脱が許されて勢いがつきすぎ、ヴァラエティ番組化してしまった結果であるようにも思える。

 こうして考えてみると、日本の(体育番組ではない)スポーツ番組の歴史はきわめて浅く、スポーツ番組をどのように作っていいのか、まだ模索している最中、ともいえるだろう。

 そんな現在、スポーツ番組の作り手に求められるのは、スポーツの「何」を伝えようとしているのか、という自覚ではないだろうか。無自覚的に漫然と、スポーツを伝えている、あるいは、スポーツを盛りあげている、というのでは、視聴者にスポーツの面白さや素晴らしさは(おそらく)伝わらない。

 野球というスポーツ、サッカーというスポーツ、その他あらゆるスポーツの、本当の面白さ、本当の素晴らしさを番組の作り手自身がはっきりと自覚し、その最も素晴らしい瞬間を映像と解説で伝えようとする意思と努力が必要なはずだ。

 では、野球やサッカー、その他のスポーツの最も面白く、最も素晴らしい瞬間とは、いったいどういうものなのか?

 それは番組の作り手がそれぞれに勉強し、考え、発見することだろうが、少々大袈裟にいうなら、スポーツという文化に対する一種の哲学的課題ともいえる。

 たとえば、間もなく北京オリンピックが開幕する。その地球上で最も巨大な祭典で、いったい番組の作り手は、「何」をどのように伝えようとするのか? 「何」をどのように伝えることが、北京の現地に足を運ぶことなく茶の間でテレビ画面を見ている人々に、「北京オリンピック」というものの「姿」を伝えることができるのか?

 各競技の中継は、国際映像によるため自由にはならないだろうが、それ以外の部分で、独自に様々な「オリンピックのシーン」を伝えることはできるはずだ。

 また、毎日のように行われているプロ野球の試合は、テレビ番組としてどのように伝えればいいのか? これも考えるべきところ、工夫すべきところは、まだまだ数え切れないくらいあるはずだ。

 また、野球場へ行って野球を見ることの楽しさがテレビの画面からも最大限伝わるようにするべきだ、と考えるなら、たとえば甲子園球場での7回裏に観客がジェット風船を飛ばし、六甲おろしを大合唱する場面は、CMや定時ニュースによってカットすることができないはずだ。仕方なくカットされた場合は、試合の一部をカットしてでも挿入する、となると、その放送には制作者の野球に対する「考え方」が表現されることになる。

 さらに、打球が外野手のあいだを転々と抜け、何人もの走者が一斉にベースを駆け抜けるシーンは、いったいどのようにすれば最も迫力ある放送になるのか? そのときのカメラの位置、切り替え、アナウンサーの言葉、解説者の話し方、話す内容…等々、もういちどゼロから考え直し、野球の最も素晴らしい場面をとらえる工夫を発見する余地は、まだまだ残されていると(私は)思っている。

 何しろ日本の(体育放送でない)スポーツ放送は、まだ始まったばかりなのだ。とはいえ、少々心配なことが一つある。それは、我々日本人にはスポーツに関して知らないことが山ほどあり、学習する機会も少ない、ということである。

 当然、テレビというメディアで働き、スポーツ中継に携わっている人のなかにも、スポーツ(の本質)を知らない人、勉強していない人が、少なくない。
 少々口幅ったい言い方になるが、私自身スポーツライターという肩書きを名乗って30年、スポーツに関する無知を自覚させられる日々の連続だった。

 たとえば、先に書いたスポーツと体育の違いを確かに認識できるようになったのは、15年くらい前のことだった。
「アマチュアリズム」という「スポーツ思想」が、労働者をスポーツに参加させないために貴族や支配者がでっちあげた差別思想であると知ったのも、15年前くらいのことだった。

 また、世界中の様々なスポーツ組織には、スポーツ以外の目的のためにスポーツを利用とする組織と、スポーツそのものを発展振興させるための組織に二分できることを理解し、後者の組織でなければスポーツの真の発展はないことに気づいたのは10年くらい前のことだった。

 そしてスポーツを真に発展振興させることが、平和で豊かな社会を築くことに実践的につながり、人々の幸福につながると確信できるようになったのも、わずか10年くらい前のことだった。

 ここに列挙したことを詳述する紙幅はないが、体育として鉄棒の逆上がりやサッカーのルールを学ぶ機会はあっても、スポーツの歴史やスポーツ組織のあり方等を学ぶ機会がほとんどない我々は(私のようにスポーツライターとして自覚的にスポーツを学ぼうとしない限り)スポーツに対する誤解や誤謬に気づかないまま、目の前のスポーツを「消費」し続けることになりかねない。

 オリンピックで日本人選手がメダルを数多く獲得すれば喜び、少ないと悲しみ、さらには怒り、そして刹那的な興奮を生起させるだけで、すべては過去のこととして忘れ去られる。

 そのような消費されるだけのスポーツを大量に生み出し、次々と消費させているのがテレビというメディアであることは疑う余地がない。もちろんテレビは、より多くの人々にスポーツの素晴らしさを伝える最も有効なメディアであることも事実なのだが、高視聴率を確保できる有力コンテンツとして放送権を持つスポーツばかりを宣伝し放送することが、はたして(日本の)スポーツの発展のために有意義なことといえるのかどうか、首を傾げたくなるケースも少なくない。

 そういったことが(日本の)スポーツの発展にとってマイナスに働くことのないよう、テレビ・メディアに携わる人々には、「スポーツをどう放送するか」を考える前に、まず、「スポーツとは何か?」「スポーツはどうあるべきか?」ということを考え、自らの手で(日本の)スポーツの発展を妨げることのないよう注意していただきたいと思う。

          
▲PAGE TOP
バックナンバー


蔵出し新着コラム NEW!!

日本人のマラソン好きのルーツはエチオピアの哲学者?

人間は「走る」より「歩く」で進化する?

自動車レースは、安全運転を競う競走!?

「スポーツゴジラ」連載「走」第2回/未来の「走り方」は過去のなかにある!?

「スポーツゴジラ」新連載「走」第1回/「速さ」は産業革命以後の価値!?」

スポーツとは何か? ――「スポーツそのもの」の魅力を求めて

「大谷翔平報道」の洪水によって洗い流されるプロ野球の「負の歴史」を忘れるな!

衝撃の文春砲! 「五輪汚職疑惑」裁判に「スポーツ利権の帝王」は召喚されるか!?

パリ五輪/真価が問われる「平和の祭典」原点回帰へ理想論を愚直に掲げよ

スポーツによる「社会革命!」川淵三郎氏文化勲章受賞の意味は大きい

川淵氏の文化勲章受章が持つ意味/組織創りの「社会革命」評価

「アレ」を喜べない古い虎ファンの嘆き/阪神タイガースは、ただ勝てばいいのか!?

ちくま文庫編集部 K 様  from 玉木正之

日本スポーツ界よ!本質から目を背けず改革から逃げるな!

五輪談合ビジネスの崩壊/メディアの沈黙は不正共犯の証だ!

メディアとスポーツの関係刷新/アスリートはメディアを使った新しいカタチに逆転すべき!

日本のスポーツ界改革/未来を担うのは過去の利権と無縁の女性たちだ

日本のスポーツとアスリートを堕落させた戦犯は誰だ!?

「メディア」としてのアリを描ききった快著/『評伝モハメド・アリ』書評

2020東京オリンピック スポーツを食い物にした五輪と電通

特別対談:小林信也vs玉木正之/高校野球甲子園大会を廃止せよ!

夏の高校野球甲子園大会は、今年を最後に抜本的に改革せよ!

大甲子園の想ひ出

「速さ」は産業革命以後の価値!?

「オリンピック休戦決議」を破ったロシアに対してIOの取るべき態度は!?

五輪が《オワコン》であることを明快に証明した記録/本間龍・著『東京五輪の大罪: 政府・電通・メディア・IOC』ちくま新書

今年の3冊『生物はなぜ死ぬのか』『亡国の東京オリンピック』『剣道の未来』

カオスからコスモスへ−−若者たちの形造る「小宇宙」=矢崎良一『松坂世代』河出文庫〈解説〉

日経美の十選/アート・オブ・ベースボール(9)「大阪タイガース來る」 / 日経美の十選/アート・オブ・ベースボール(10)遠藤忠「長嶋茂雄ヘルメット飛ばす」

日経美の十選/アート・オブ・ベースボール(7)ベン・シャーン”National Patime" / 日経美の十選/アート・オブ・ベースボール(8)ナット・ファイン『The Babe Bows Out』

日経美の十選/アート・オブ・ベースボール(5)hoda Shrball「Casey Stengel」 / 日経美の十選/アート・オブ・ベースボール(6)「Baseball scene of Batter,Catcherand Umpire」

日経美の十選/アート・オブ・ベースボール(3)玉井力三「ジョー・ディマジオ親子とヤンキースタジアム」/同(4)「ワールドシリーズのオフィシャル・プログラム1988」

日経美の十選/アート・オブ・ベースボール(1)ニール・ライファー「シェイ・スタジアム」/同(2)「The American National Game of Base Ball.」

スポーツお薦めの一本!一冊!/『けんかえれじい』と『老人と海』

愛情あふれる「野球の素人」奮戦記/清武英利『サラリーマン球団社長』文藝春秋

戦前日本野球史の誤りを正す/坂本邦夫・著『紀元2600年満州リーグ 帝国日本とプロ野球』岩波書店

スポーツそのものを描いた小説〜ヘミングウェイ『老人の海』の凄さ、素晴らしさ!

六道珍皇寺・閻魔大王像――幼い頃に恐怖心を刻まれた閻魔様との再会

まえがき――今こそ「スポーツとは何か?」を考え直してみよう!

「スポーツ・ブーム」「マッチョ・ブーム」は危険ではないか?

現在の「スポーツ・ブーム」「マッチョ・ブーム」は危険ではないか?

東京五輪の遺産(レガシー)はなにか? スポーツの根源問う好機に

市川崑監督の映画1964年の『東京オリンピック』は、スポーツの素晴らしさを教えてくれた史上最高のスポーツ映画。はたして河瀬直美作品は、どんなオリンピック映画になるのか?

『彼らの奇蹟 傑作スポーツ・アンソロジー』解説

英語は難しい? 外国語とスポーツの不思議な関係

それはわずか50年前の出来事 高速道路と新幹線が初めて出現した時代の興奮

こころの玉手箱第3回「一本足打法のブルドッグ 旧ソ連、不思議な国家とその時代」

こころの玉手箱第2回「母がくれた小さな薬缶 常に一緒、激励の手紙にはマイッタ」

こころの玉手箱第1回「父の飯盒と水筒と勲章」

『ふたつのオリンピック東京1964/2020』訳者あとがき――そこにはただ風がふいているだけ……

猛暑の高校野球 改革せよ!試験期間中の予選もおかしい

政治経済問題は第1回大会から。オリンピックに未来はあるか?/ジュールズ・ボイコフ[著]中島由華[訳]『オリンピック秘史−120年の覇権と利権』早川書房

いまも京都はアンダー・コンストラクション/島田裕巳『京都がなぜいちばんなのか』ちくま新書

スポーツに映し出されたアメリカという国の本質/鈴木透・著『スポーツ国家アメリカ 民主主義と巨大ビジネスのはざまで』中公新書

スポーツ教養主義を押し進めたメディアの興亡/佐藤彰宣『スポーツ雑誌のメディア史 ベースボール・マガジン社と大衆教養主義』勉誠出版(3200円+税)

大相撲は日本文化の精華――それを「保守」することこそスポーツ(格闘技)以上の大相撲の役割なのだ

愛煙家には理解できない煙草の話 「卒煙」して初めてわかる元ヘビースモーカーの悩み

モンゴル会の実態把握を

スタジアムとは都市の文化の核となる存在である/後藤健生・著『世界スタジアム物語 競技場の誕生と紡がれる記憶』ミネルヴァ書房

2020東京五輪は環境問題も無為無策?

子規の野球への視点――それは、スポーツライターの原点

銃剣道はスポーツか? そのうちに、まさか竹槍も?

先人たちの語る日本マラソン低迷の理由/折山淑美『日本のマラソンはなぜダメになったのか−日本記録を更新した7人の侍の声を聞け!』文藝春秋社

元ボクサーたちの痛快な再起:沢木耕太郎『春に散る』朝日新聞出版・書評

2016年は没後400年〜シェイクスピアは未来永劫生き続ける超人(スーパースター)である

無駄でなかった小池提起〜しかし、問題はまだ山積

半歩遅れの読書術第5回/五輪とは何か 文明化を表象する平和運動

半歩遅れの読書術・第4回/五輪で何を撮るか ドイツの女性監督と市川崑

半歩遅れの読書術・第3回/ユーロ・サッカーとシェイクスピア 原作者の意図を超える面白さ

半歩遅れの読書術・第2回/モハメド・アリと南部麒六 悲歌の似合う雄々しい人生

半歩遅れの読書術・第1回/ドナルド・キーンとイチロー 伝統の魅力思い出す

猫ブームの日本で好かれている猫〜それはドラえもんのような「犬的な猫」?

大相撲こそ江戸の華。昔も、今も、都の華。

大相撲は「お国自慢」の文化――琴奨菊の優勝を日本人として喜ぶ

大学スポーツを考える

大相撲は日本の国技――と同時に、ユーラシア大陸全体に広がる格闘技文化なのだ

スポーツライターを引退しました

エンブレムがプロブレム〜創作とは過去を超えること

NHK視点・論点 「体育からスポーツへの変化を」

槇文彦グループの提言:低いキールアーチ構造がコスト高・長工期の原因である。

『スポーツ・アンソロジー彼らの奇蹟』(新潮文庫)は、何故か「死」と関わりを持つ作品が多くなってしまった。

スポーツと文学第5回/「人間ドラマ」礼讃の気風/競技描いた名作も多く

スポーツと文学第4回/運動会 躍動するパワー/壮士も近代女性も熱中

スポーツと文学第3回/思想を宿し物語る肉体/20世紀 覆る「精神優位」

スポーツと文学第2回/近代民主主義と武道/国際化と反時代2つの道

スポーツと文学第1回/古典に描かれた競技・日本人の個人技好みを映す?

日本の作家はスポーツが好き!?/数多い「日本のスポーツの本」に改めて注目しよう!

夏の甲子園・投手の酷使……最大の問題点は?

世界最強のブラジル・サッカーは、史上最悪の敗北からスタートを切った!(沢田啓明『マラカナンの悲劇 世界サッカー史上最大の敗北』新潮社)

京がたり 俺の祇園 いやで捨てたけど、好き

スポーツの正しい発展のために指導者ライセンス制度の確立を!

東京の新しい歌舞伎座が完成オープン/歌舞伎はナンデモアリの最高に楽しい大衆芸能ナノダ

あけましておめでとうございます。

スポーツする身体 十選/第9回スポーツする身体 パブロ・ピカソ『マタドールの死』/第10回スポーツする身体 ベン・シャーン『ハンド・ボール』

スポーツする身体 十選/第7回スポーツする身体エドガー・ドガ『観覧席前の競走馬』/第8回スポーツする身体ルネ・マグリット『迷える騎手』

スポーツする身体 十選/第5回ボナール『ボクサー』/第6回モネ『アルジャントレイユのレガッタ』

スポーツする身体 十選/第3回ディスコボロス(円盤を投げる人)/第4回クールベ『レスラー』

スポーツする身体 十選/第1回アルジェリアの洞窟壁画/第2回マチス『ダンス』

東京オリンピック〜戦後日本のひとつの美しい到達点

「黒人選手」は本当に速くて強いのか!?〜スポーツと五輪の過去・現在・未来

「美」で誘惑した女の一生――ライナー・ローター著『レーニ・リーフェンシュタール 美の誘惑者』(ライナー・ローター/瀬川裕司訳/青土社・2,800円)

プロ野球ビジネスの未来〜球界全体の新戦略を

日本体罰論〜いま改めて考える「スポーツ」と「教育」と「体罰」

東京の新しい歌舞伎座が完成オープン/歌舞伎はナンデモアリの最高に楽しい大衆芸能ナノダ

六道珍皇寺・閻魔大王像――幼い頃に恐怖心を刻まれた閻魔様との再会

大河ドラマは世に連れ、家族は大河ドラマに連れ……

京都駅の思い出

スポーツ振興くじ(toto)は「ギャンブル」や「金集め」だけでは語れない!

あなたは知ってる!? スポーツの疑問の数々…

五輪のあり方を考える〜ネット中継や交流も…/ロンドン・オリンピックはシェイクスピアに注目!?

「猫もするなり球遊び」スポーツは、世界(オリンピック)と地域社会(クラブ)をつなげる

「猫もするなり球遊び」オリンピックは人類の祭典!日本人にとっては?

二代目市川亀治郎さん(現・四代目市川猿之助)――伝統とは「変える力」

大学の教壇に立って……〜ジャーナリズムとアカデミズム

ランニングの歴史と魅力を伝える〜トル・ゴタス著『なぜ人は走るのか:ランニングの人類史』(筑摩書房)

読者からの質問への回答

『マーラーの交響曲』発売記念エッセイ〜いつか私の時代が来る、とマーラーは言った。

祇園町の電器屋の初荷

権力志向者がジャーナリストになる危険性――魚住昭『渡邉恒雄 メディアと権力』講談社

かつてラグビーは日本中を湧かせた!(上岡伸雄・著『釜石ラグビー栄光の日々松尾雄治とくろがねのラガーたち』中央公論社)

日本文化「大相撲」は「スポーツ」なのか?

オペラ(音楽)とスポーツの濃密な関係

塾や予備校は学校より大事?

「新道」という名前が消える寂しさ

孤立化、個別化する社会のあり方に警告(杉本厚夫『「かくれんぼ」ができない子どもたち』ミネルヴァ書房)

女心・男心…人間を描くため、肉体を描ききった本物の作家(虫明亜呂無『パスキンの女たち』清流出版)

松本修『「お笑い」日本語革命』(新潮社)書評「みたいな。」の元祖はとんねるずか!?

犬好き男の愛猫記

大魔神を巡る見事な「知的探検の旅」/小野俊太郎・著『大魔神の精神史』(角川ONEテーマ21)

企業の「所有物」と化したスポーツ・文化団体

スポーツ番組作りの「プロ」になっていただくために

「スポーツ放送はどうあるべきか?」を考える前に、考えるべきこと

書評『茶の世界史』/茶が映し出す過去の世界史&茶が匂わせる未来社会

思い出すのは仕事をしている姿

脳出血と恐怖心

現代社会の「怪物性」を説き明かす見事な一冊〜小野俊太郎・著『フランケンシュタイン・コンプレックス 人間は、いつ怪物になるのか?』青草書房

「劣等感・コンプレックス」とは、本当はどんなものなのか

あけましておめでとうございます

脳出血から復活できた理由(わけ)

「何か」を表現しようとする究極の本能

天職人〜あとがき

そばは京都にかぎる

総選挙の行方とスポーツ界

小泉首相の「趣味」と「文化政策」

行きつけの店は恋人に似てる?

アイ・ラヴ・サッポロ!アイ・ラヴ・ホッカイドウ!

日本文化の「型」と「カタヤブリ」と「カタナシ」の関係を横綱・朝青龍の「カタチ」から読み解く。

いま、ベネズエラで起きている「大事件」

「文化」の持つ本当の力

あけましておめでとうございます

煩悩の世界史〜『要約世界文学全集』(木原武一・著/新潮社)

「夢かうつつか…」逝った者へ…、残された者は…

オリンピックはスポーツではない

「天才」の多くなった世の中

『二十五時』との数奇な出逢い

わたしは猫になりたい。

紅旗征戎不有吾事 金は天下の周りの持ちもの…

アメリカ珍道中〜This is American Way

仕事人間の弁明

変わらないことの素晴らしさ

<二人袴>

女人狂言『茶壺 de Hermes』

私の行きつけの店・好きな店

島田雅彦vs玉木正之 ドイツW杯特別対談「選手を自由にさせたら高校生になっちゃった」

あけましておめでとうございます

個人的パラダイム・シフトに導かれた三冊

ゴシック・万博・ストリップ・吉本…を読む

現代と未来の世界を考えるうえでの「真の世界史情報」(井野瀬久美恵・著『興亡の世界史16 大英帝国という経験』)

300万ヒット記念特集・蔵出しの蔵出しコラム第3弾!

300万ヒット記念特集・蔵出しの蔵出しコラム第2弾!

300万ヒット記念特集・蔵出しの蔵出しコラム第1弾!

知識や情報なんて、ないほうがいい

現代日本人必読の一冊

タクシーと自家用車の違い

「天才」って何? ――まえがきにかえて

「ある女の一生」

「戦争映画」が好きな理由(わけ)

とかく京都のスポーツマンは……

道はどれほど重要なものか

祇園町の「生活」=「文化」

地獄八景万之丞乃戯(じごくばっけいまんのじょうのたわむれ)

わたしは猫になりたい。

読書日記〜稲垣足穂から梅原猛まで

アッピア街道に乾杯(ブリンディシ)!

「質より量」の読書は「質」が残る?

スポーツは究極の道楽?

久しぶりに「銀ブラ」でもするか・・・

行きつけの店は恋人に似てる?

権力志向者がジャーナリストになる危険性――魚住昭『渡邉恒雄 メディアと権力』講談社

ロジャー・パルバース著『旅する帽子』生身のラフカディオ・ハーンが幻想のなかに甦る

作者の名前も作品の題名も消えるほどのノンフィクションの名作〜デイビッド・レムニック著『モハメド・アリ』

戦争と軍隊の歴史

スポーツと音楽を通して出逢ったトリュフ

スポーツ・ジャーナリストにはスポーツよりも大事なものがある?

お薦めの本(2003年夏〜2004年春)

日本人は元気だ――24人の元気な日本人

美しい最後の素晴らしさ

「若い国」アメリカ

京都人の溜息

経済には倫理が必要である

オススメ脳味噌のマッサージ

吉本興業は匈奴である『わらわしたい――竹中版正調よしもと林正之助伝』竹中功・著/河出書房新社

虚実の皮膜――『イッセー尾形の都市カタログPART2』イッセー尾形/森田祐三・共著 早川書房・刊

胡散臭さ礼賛――竹内久美子『賭博と国家と男と女』(日本経済新聞社)

衝撃的な笑劇――レイ・クーニー『笑劇集』劇書房

翻訳って何?――『翻訳史のプロムナード』(辻由美・著/みすず書房・刊)

脳細胞の組み替え――『世界史の誕生』岡田英弘・著/筑摩書房(現・ちくま文庫)

長老の話――堀田善衛・著『めぐりあいし人びと』を読んで

古典の楽しさ

ドリトル先生 不思議な本

京都が消える

嬉しいこと――喜びは常に過去のもの

野村万之丞 ラジカルな伝統継承者(2)

野村万之丞 ラジカルな伝統継承者(1)

事典・辞典・字典・ジテンする楽しみ(第5回=最終回)

事典・辞典・字典・ジテンする楽しみ(第4回)

事典・辞典・字典・ジテンする楽しみ(第3回)

事典・辞典・字典・ジテンする楽しみ(第2回)

事典・辞典・字典・ジテンする楽しみ(第1回)

先達はあらまほしきか?

旅の衣は篠懸(すずかけ)の

パチンコと飢餓海峡

最近の映画はつまらない?いや、やっぱり、映画はおもしろい?

神道、天皇、韓国・・・を読む。

はかなく、素晴らしい、味わい

京の祇園の極私的元服之儀

コースケ(野村万之丞)の遺言

ミレニアム歳末読書日記 楽しい世紀末

お金と勉強

親父ゆずりの数学好き

わたしの本棚(4) スポーツを読む

わたしの本棚(3) 祭りの原型

わたしの本棚(2) ドラマの感動

わたしの本棚(1) 振動する快楽

夏休み読書日記/スポーツ・身体・ジャーナリズム

銀行は痰壺処理会社

親父の隠したエロ小説

野村万之丞――伝統と格闘するパワー

女が動く時代、男は思索せよ

バック・オーライ

二十五時――わたしの好きな世界文学

「私の京都」

わたしの東京体験

SPレコードは生演奏と同じ〜蓄音機にはまってしまった!

感銘した一冊の本〜鈴木隆『けんかえれじい』

「情報過多時代」の楽しみ方

内面より外面

不味いものが食いたい!

ああ、肩が凝る。

父の勲章

京の昼寝

祇園町の電器屋の初荷

Copyright (C) 2003-2011 tamakimasayuki.com. All Rights Reserved. Produced by 玉木正之HP制作委員会. ホームページ制作 bit.
. 『カメラータ・ディ・タマキ』HOMEへ戻る