「貴方の尊敬する人は?」と訊かれたとき、日本の子供たちは、信長、秀吉、家康や、西郷隆盛、野口英世、夏目漱石などなど、歴史上の偉人といわれる人々の名前をあげる場合がほとんどだという。が、欧米では「私の両親です」と答える子供たちが多い――という話を聞いたのは、いまから約四十年前、私が中学生のころのことだった、と記憶している。
そして、やはり私自身も、「尊敬する人は父です」とか「母です」と答えるのは、かなり照れ臭くて不可能だ、と思ったものだった。また、子供がそんなふうに答えたなら、親も照れ臭がるに違いない、とも確信した。
私の父は、京都の祇園町で小さな電器屋を営んでいた。母も、家事と同時にその仕事を手伝い、両親の思い出といえば、ほとんど働いている姿ばかりだった。
父は腰にドライバーやペンチをぶら下げ、毎朝スクーターに跨り、工事に出かけ、夕食前に帰宅した。晩酌は夏はビール一本、冬は徳利一本。気分のいいときは、長唄『勧進帳』の一節や歌舞伎の『寺子屋』『曾根崎』『斬られ与三』などの名台詞も飛び出したが、毎度同じ箇所の繰り返しで、子供心には辟易とさせられたものだった。
母は、毎日父より早く起き、小さな店を隅から隅まで掃除した。それが終わると私と姉の朝食を作り、学校へ送り出してくれた。私は、母の化粧をした顔を見たことがない。綺麗に洗顔はしていたが、コスメチックの類は一切使わなかった。そして私たちが夕食後の一時にテレビを見ていると、母はその後片付けをしたり、繕いものをしたり……。
要するに父も母も、思い出されるのはせっせと働いてる姿ばかりなのである。もちろん家族でドライヴに行ったことも一度や二度はあった。遊園地へ連れて行ってもらったこともあった。私が東京の大学に入り、帰省したときには父に案内されて先斗町や宮川町を飲み歩いたことも一度や二度くらいはあった。
しかし、心に残っている両親の姿といえば、やはり仕事をしているときのことになってしまう。
そんな父が相当身体を衰弱させた十数年前、入院先の病院に見舞いに寄ると、最初はニコリと笑ってくれた。が、しばらくベッドの横に座って近況などを話していると、右手を微かに振って小さな声で何か言った。口元に耳を近づけると、掠れた声が聞こえた。
「帰れ。帰って、あんじょう仕事せい」
そのことを母に言うと、「昔と同じこと言うなぁ」と笑った。
そんな母も、六年後には父の後を追った。その間、鎌倉の我が家を訪れた母を東京へ芝居見物に連れ出したこともあった。が、電器屋を閉めて仕事のなくなった母は、いつもどことなく寂しそうで、活力は戻らなかった。
働いている姿こそ心に残る想い出……という人生を見せてくれた両親に、今は感謝するばかりで、さて、私の三人の子供たちは……と思うとき、心の底から我が両親を尊敬できるのである。
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