シドニー五輪が開幕するとテレビもラジオも、新聞も雑誌も、マスメディアはオリンピック報道の大洪水となる。
日本選手がメダルをとれば大喜びし、期待していた選手が敗れると落胆する。しかし……それは、自然な反応といえるのだろうか? スポーツ・ジャーナリズムとして「正しい報道」のあり方といえるのだろうか?
多額の税金を使って送り込まれた多数の選手団の闘いを、ただ「面白いから」といって報じるのは、ナショナリズムを喚起する以外の何物でもないのではないか?
そのような報道に意味があるのか? という批判に対して、いいや、メダル獲得を騒ぐのは「正しい」と、きちんと反論できるのか? メダルなんかいらないから、もっと価値のある活動に税金を使え! という批判に対して、いいや、オリンピックは本当に素晴らしいものだ、と反論できるのか?
はたして、オリンピック報道は、どうあるべきか?
はたまた、「スポーツ・ジャーナリズム」とは、どうあるべきなのだろう?
じつは、これらの疑問に対する答えを、私は、長いあいだ考え続けた。そして、やっと、ひとつの結論に達した。それは、オリンピックでのメダル獲得を騒ぐのは「正しい」という結論である。
かつては、オリンピックや世界選手権で好成績を残すには、優秀な選手を体育大学や自衛隊体育学校に入学させて強化したり、スポーツ・エリートを特訓すれば、それでよかった。
1964年の東京五輪の時代は、日本は、そのやり方でアメリカ、ソ連に次ぐ世界第3位の16個もの金メダルを獲得した。
が、その後、日本のスポーツは低迷の一途をたどる。そのようなスポーツ・エリート教育では、世界の頂点に立てないことが証明されたのだ。
変わって、学校教育(体育)から離れた「クラブ」で、競技人口が増えた競技が強くなってきた。日本の水泳が復活してきたのは、多くの子供たちが水泳教室に通うようになったからであり、サッカーが強くなったのはJリーグができた結果といえる。
多くの子供たちが楽しめるスポーツ環境が整わないと、トップの競技者も強くならない、ということが証明されはじめているのだ。
オリンピックでのメダル獲得を騒ぐなら、社会におけるスポーツ環境(地域に密着したクラブと、指導体制の確立)に目を向けなければならなくなったのである。
これは、素晴らしいことだ。
オリンピックでメダルを目指すのは、豊かな社会をつくることと、密接につながっているのである。オリンピックを報道する人々は、どうか、そのことを忘れないでほしい。 |