いまから十六年前の一九八一年の秋、モントリオールで仕事を終えた私は、ひとりでニューヨークを歩いてみたくなり、アムトラックの夜行に乗り、翌朝ニューヨークのペンシルヴァニア駅に降り立った。そして安宿でも探そうと思い、駅を出て、朝のニューヨークの冷たい空気のなかを、ぶらぶらと歩き出した。
駆け足のような勢いで職場へ急ぐビジネスマンやビジネスウーマンの群れを避け、大通りを折れて人気(ひとけ)のない道をしばらく歩くと、“CHELSEA HOTEL”という看板があった。外観は、四階建てくらいの古い石造りで、なかに入ると小さなロビーに赤い煉瓦の暖炉があった。その周囲の壁には何枚かの油絵がかかっている。フロントには木の格子があり、何やら昔の銀行か質屋のような趣で、なかなか情緒がある。
一目で気に入ったので、格子の向こう側に立っていた男に、空いている部屋があるかどうか訊くと、目を落として伝票の整理をしていた背の高い中年男が「ユアヴェリイラッキイ」という。
私は、宿泊カードに名前やパスポート番号を書き入れ、一泊分の宿泊料を前金で支払い、部屋のキイを受け取った。そのとき男が、もういちど「ユアヴェリイラッキイ」といった。小さな声ではあったが、妙に力のこもりすぎたその言い方に、心のなかで少しばかり首を傾げながら、一階の廊下のいちばん奥にある部屋に入った私は、その瞬間、「何がヴェリイラッキイだ!」と怒鳴りたくなった。
床は冷たいコンクリートの打ちっ放しで、古い鉄製のベッドは鞄を放り投げただけでみしみしと音をたてる。テレビもなければソファもなく、電話機もない。使い古した勉強机のような小さなデスクの引き出しをガタガタと開けると、細かい砂埃がたまっている。取っ手の壊れたタンスのなかにはハンガーすらない。バスタブのないシャワーだけのバスルームにも、シャンプーはおろか石鹸もなく、おまけにシャワーは(あとで使ってわかったのだが)熱湯と冷水が交互に噴き出すような代物だった。
ところが少々黴臭い厚手の白いカーテンを開けたとたん、腹立たしい気持ちは一瞬にして消え去った。
錆びた鉄枠の窓越しに、中庭が見えた。煉瓦敷きの小さな広場は、鉄製の非常階段を備えた石造りの建物に囲まれ、斜めから朝日を浴びた広葉樹が一本、枯れ葉を風に舞わせながら、静かに佇んでいた。
それは、不思議な光景だった。
その光景を見た瞬間、殺風景な部屋のなかまでが、なぜか美しいものにみえてきた。そして、「ああ、自分は、いま、ニューヨークにいる」と、実感した。
耳を澄ませば、遠くのほうから大都会の喧噪がかすかに聞こえてくる。ラッシュアワーのクルマのエンジンの音、クラクション、それに、雑踏を行き交う人波のざわめきなどが、ごちゃまぜになって、ゴオオオオーッと低く響いている。
静けさや 庭に染み入る ニューヨーク……
とでもいえばいいのか、誰もいない中庭、一本の樹木、飾り気のない部屋は、ニューヨークという大都会を見事に浮き彫りにするほどに対峙していた。そのとき私は、ひょっとして、ここはニューヨークで最高のホテルではないか……と、素直に思った。
……というところで、この文章を終えるべきなのだろうが、その後、ベッドメイクに来てくれた黒人のおばさんから聞いた話も書き加えておこう。
私が「ヴェリイラッキイ」にも泊まることのできた“CHELSEA HOTEL”は、ニューヨークの作家やアーティストの定宿で、旅行客が宿泊することは、まず不可能だという。ちなみに私が泊まった部屋は、ノーマン・メイラーがよく使っていた部屋らしい。そういえば部屋を出てロビーですれ違った男の顔は、フランシス・コッポラに似ていた。それに、ロビーの壁に飾ってあった油絵に眼を近づけてみると、“Picaso”というサインがあった。
それらのことを知ってから、“Chelsea Hotel”に泊まったことを、素直に自慢できなくなった自分が情けない。
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