本書はアメリカで創り出されたアメリカ独自の〈アメリカ型スポーツ競技〉から、アメリカという国の本質を読み取ろうと試みた労作である。
南北戦争後〈文化的独立を目指したアメリカ〉は、ベースボール、アメリカンフットボール、バスケットボールなどの競技を創造し、発展させた。
それらは中世的祝祭から一部のエリートが中心となって生まれたヨーロッパ型競技とは異なり、〈公正な競技を保証するルール〉に基づき、〈民主主義的〉な要素を多分に含むものだった。
すなわち試合は、ヨーロッパ型フットボールやボクシングのように一人の絶対的審判によって裁かれるのではなく、複数の審判によって進められ、出場選手も、一部のエリート選手だけでなく、多くの専門分野の選手が入れ替わり立ち替わり登場するものとなった。
そしてそれらの〈アメリカ型(の民主的な(競技〉は、我が国のプロ野球のような親会社の広告媒体として存在するのではなく、地域社会(共同体)の「公共財」として存在し、〈人種の壁や性差別への挑戦の舞台〉ともなり、きわめて民主的な発展を遂げる。
一方で商業主義的に肥大化するとともに、国内では大人気を誇るもののバスケットボールを除けば国際的には普及せず、〈大リーグとて世界的に見ればマイナースポーツ〉なのだ。が、大リーグやプロバスケットボールのNBAには、日本を初めアジア諸国や中南米、ヨーロッパ諸国から大勢の外国人選手が参加している。
その姿は冷戦後のアメリカの〈多国籍軍の姿と重なる〉と著者は指摘し、〈プロスポーツの門戸開放は、国際化のようでいて、実際には「アメリカこそが中心であり、アメリカのやりたいようにやらせてもらう」というスポーツ孤立主義をより強化している〉と書く。
さらに現在のトランプ大統領を〈自己顕示欲の塊〉で〈リング上でマイクを握るプロレスラーの姿と重なる〉と思わず吹き出してしまうような指摘もふくめ、スポーツというカルチャーに鮮やかに映し出されたアメリカを、最後に〈アンスポーツマンライクな(スポーツマン的ではない)国へと暴走しかねない〉と締めくくる。本書は、見事なスポーツ文化論と言える。 |