昭和19年5月。太宰治は生まれ故郷に旅して名作「津軽」を書く。その最後に彼は育ての親を探す途中、国民学校の校庭で「運動会」に遭遇し「呆然」とする。
万国旗。着飾った娘たち。白昼の酔っ払い。子供と女は、ごはんを食べながら、大陽気で語り笑っている。「日本は、ありがたい国だと、つくづく思った。(略)国運を賭しての大戦争のさいちゅうでも、本州の北端の寒村で、このように明るい不思議な大宴会が催されて居る」
運動会――この素晴らしい日本独自のイベントは、明治16年(1883年)に英国人英語教師F・W・ストレンジが「大学(東京帝国大学)当局に働きかけ、企画・準備し、実際の競技運営まで携わ」り始まったという(高橋孝蔵「倫敦から来た近代スポーツの伝道師」)。
その様子は夏目漱石の小説『三四郎』にも詳述され、「二百メートル競走」「砲丸抛」「槌抛(ハンマー投げ)」「長飛(走り幅跳び)」「高飛(走り高跳び)」等、五輪競技に近いものだった。
それを見ても何も面白く感じられない三四郎は「あんなものを熱心に見物する女は悉く間違ってゐる」と嘆く。漱石は、運動会を楽しむ近代女性の美禰子と、最新文明(スポーツ)を理解できず反応できないでいる田舎者の三四郎を対比させた。
また三四郎は「運動会は各自勝手に開くべきものである。人に見せるべきものではない」とも呟く。漱石は、そこに国策(富国強兵)の匂いを嗅ぎ取ったのかもしれない。
実際この運動会を見た当時の文部大臣森有礼は、児童生徒の体位向上と集団訓練を目的に、全国の小中学校や師範学校に運動会を開催するよう文部省令を発した。が、当時の学校は就学率も低く、農繁期には学校を休む児童や生徒も多く、校庭も整っていなかったため、とても小中学校一校では運動会を開催できず、複数の学校が「連合」して、寺や神社の境内で開催することになった。
その結果、運動会には遠足の要素が加わり、弁当を用意するようになり、さらに檀家や氏子の参加も促すところから「パン食い競走」「豚追い競走」「大玉転がし」「杓文字競走」などの娯楽競走が全国同時多発的に誕生。盆踊りや秋祭りなどの同時開催も始まった。
さらに集会を禁じられた自由民権運動の壮士たちが運動会を隠れ蓑に「集会」を開催。「自由の旗奪い合い」「圧政棒倒し」「政権争奪騎馬戦」などの独自の競技を創案し、競技の合間に「薩長藩閥政治打倒」などとデモも行い、それが今日の仮装行列に発展した。
太宰が描いた運動会は、この「連合運動会」や「壮士運動会」が合体したもので、そこには「遊びをせむとや生まれけん」(梁塵秘抄)と平安末期の庶民が歌って以来の日本人の国策を上回るパワーが感じられる。
一方「三四郎」に描かれた運動会は国際競技大会として日本人の心を捕らえた。
昭和5年に発表された阿部知二の小説『日独対抗競技』では、厳格な学者夫人が夫の甥から不倫の求愛を受け、共に神宮競技場へ標題の陸上競技を見に行く。2日目に一人で足を運んだ彼女は、「男性の肉体が何のために存在し、何を意味しているかを感じた」
周囲の群衆は愛国的な歓声をあげ、不倫に誘う男もソ連のマルキシズムとスパルタキアードを語る。さらに「あのようなものを観るのは、恥だ。国家としての恥だ」という夫の声も幻聴として(?)聞く。
が、夫人の意識は、ドイツ人選手の「白く広い胸」や「舞踏より美しい肉体の回転」に奪われ、夫の「葉巻の匂いの滲み込んだ針金のような肉体」や、不倫に誘う男の「蒼い心理」を憎む。
三四郎に「あんなものを熱心に見物する女は……」と語らせた漱石は、スポーツの有する危ない誘惑の力に気づいていたのかもしれない。 |