1987〜8年にかけて『全集 黒澤明』(岩波書店・全6巻)が出版されたとき、第2巻におさめられている『野良犬』のシナリオを読んで、わたしは思わず「イエーイ!」と快哉を叫んだ。というのは、ピストルを奪った犯人を追って後楽園球場の観客席をさがしまわる刑事たちの描写の合間に、つぎのような巨人阪神戦の試合展開が書かれていたからである。
<キーン! 千葉が一、二塁間を抜く>
<川上の二塁打>
<別当の三塁打>
<青田のファインプレイ>
たったこれだけの文章でも、(古くからの)プロ野球ファンならだれもが、わたしとおなじように大喜びするか、ニンマリと頬笑むにちがいない。千葉のライト打ち、川上の弾丸ライナー、別当の長打と駿足、じゃじゃ馬青田の派手なスタンドプレイ・・・といった具合に、彼らならではの個性あふれる瞬間が、すでにシナリオの段階で的確に記述されているのである。
カルメンの殺人が大観衆に沸く闘牛場の一角でおこなわれるように、犯人追跡の緊迫感を盛りあげるためのコントラストとして野球場という場面設定が選ばれただけなら、なにもここまで詳細にシナリオを書く必要はあるまい。これは、シナリオを担当した菊島隆三が大のプロ野球ファンで、黒澤明がディテイルにこだわる監督だった結果というほかない。
わたしは映画の『野良犬』を20年近く前に見て、スリル満点のすばらしく面白い映画だったという印象を抱いていたが、この場面がどのような映像になっていたのか、はっきりとした記憶はない。が、作家の虫明亜呂無が、つぎのように書いている。
<黒澤明の名前が刺激的なのは『野良犬』の野球シーンが、誇張ではなしに、世界一すぐれたものだったからである。(略)選手がほんとうに打ち、走っていた>(『スポーツへの誘惑』)珊瑚書房)
おそらく、シナリオ段階での周到な狙いがこのようなすばらしい野球の描写を生み、そして映画のスリルを一段と高めたにちがいない(じっさいの映画の映像は、スケジュールその他の事情が生じたのだろうが、脚本とは異なり、後楽園球場での巨人阪神戦でなく、同球場での巨人南海戦が収録された)。
もちろん『野良犬』を野球映画やスポーツ映画のジャンルで語るひとはいないだろう。が、一方で、この国の「スポーツ・ノンフィクション」とか「スポーツ小説」と呼ばれているジャンルの作品には、『野良犬』の一場面のようにスポーツ(野球)そのもののすばらしさを感じさせるものが、なぜか少ないように思える。
それは、田中英光の『オリンポスの果実』にしろ沢木耕太郎の一連の作品にしろ、スポーツそのものを描くこと以上に、スポーツを通して「人間」や「社会」や「時代背景」を描くことのほうに力点が置かれているからだろう。そのような作品を読んだあと心にのこるのは、青春や人生の苦悩であり、組織や社会や歴史に翻弄(ほんろう)される人間の軌跡であり、彼らスポーツマンの心の動きに共鳴する著者の視点といったものでしかない。そして残念なことに、なるほどボクシングとはこれほどに凄まじいスポーツだったのか、とか、野球とはこんなにすばらしいスポーツだったのか、というような感動や、それらのスポーツを見たときに感じる爽快感と同じような爽やかな読後感を得られる作品はほとんど存在しない。
一方、アメリカの「スポーツ作品」には、スポーツそのものの面白さを堪能できる作品が少なくない。そしてスポーツのおもしろさと、それと格闘する人間を通して、人間そのものの面白さや、社会の複雑さ、不可思議さといったものを教えられる作品も少なくない。
『12人の指名打者』(文春文庫)は、野球の楽しさを心の底から味わうことのできる短編集であり、ジョージ・プリンプトンの長編『シド・フィンチの奇妙な事件』(同)は、時速270キロの豪速球を投げるピッチャーがヒマラヤの麓(ふもと)から現れたという設定で、“聖人伝説”に仕上がっている。それはパトリック・ジュスキントの『香水』(同)に比肩するほどの見事な現代の神話といえる。『香水』が「ある人殺し」の奇矯な一生を描くと同時に、香水そのものの妖しい魅力を微細に描きだすことに成功しているのと同様、『シド・フィンチ・・・』も、ベースボールというスポーツの魅力を十二分に描ききったうえで、読者を異次元の世界(スポーツの世界と物語の世界)に引きずり込んでくれるのだ。
なのに、人間が創造したスポーツというすばらしい文化を素通りして人間そのものを描こうとする傾向の強いこの国では、スポーツそのものの価値が、まだそれほど高いものとは認められていない、ということなのだろう。 |