最近、何年ぶりか忘れてしまうほど久しぶりに、映画館で映画を見た。だから、映画について思いつくまま書いてみよう。
▼映画館に足を運ばなくなったのは、映画をビデオやレーザー・ディスクで見るようになったからである。映画館に行けば1人で1800円!(どんなに高くても1500円ぐらいだと思っていたから、仰天した)。ビデオを買えば、5000円前後。しかも一家5人で何度でも見ることができる。どう考えても、ビデオを買うほうがおトクなのである(註・今はDVDがもっと安く手に入るようになった)。
▼映画は、映画館の大画面と大音響で味わうべし・・・というひとがいる。わからないでもないが、最近のテレビ受像器の画面は、けっして小さくない(我が家は38インチである)。音も迫力がある。画質もきれい。それに、小生のように、いつも冷めた目で物事をながめることが職業の人間は、大画面に酔いたいと思わない。むしろ、騙されまいという意識が強いから、より冷静にドラマを見ることが出きる、「小さな画面」のほうがふさわしい。
▼ビデオ化は、早くても封切りの1年後(註・最近はもっと早くなった)。だから、流行に遅れる、というひともいるだろうが、情報を早く得ることなど何の意味もないと思っている人間にとっては、1年くらいの遅れはどうでもいい。いい映画は、いつまでも(ビデオで)残る。いい映画だけを見ればいいのだから、何も慌てることはない。
▼それに、近頃は、おもしろい「映画論」を雑誌や新聞で読んだことがない。映画評論家や映画好きの作家は、「封切り」=「宣伝」=「流行」を追って、やれ『タイタニック』だの『アルマゲドン』だのと騒いでいるだけ。小生のように物書きを生業(なりわい)としている人間でも、何も焦ることはない。おもしろい批評や評論を書く余地は、封切りから1年経とうが10年経とうが、残されている。おまけに「ビデオ評」という書き方もある。封切りを見なければならない理由は何もないのである。
▼最近、映画館に足を運ばなくなったのは、いい映画が少なくなったことも理由の一つである。くだらない作品が増え、映画全体の魅力が低くなったのか、とにかく、話題になっている作品ほど、くだらないものが多いようにも思える。
▼子供が「『フォレスト・ガンプ』を映画館で見て感激した」というから、レーザーディスクを買って見たところが、ただアメリカの現代史のエピソードを集めただけのまったくくだらない子供ダマシで、呆れ返った。こんな作品がアカデミー作品賞をとるようでは、ハリウッド映画の質も堕落したものだ。
▼『タイタニック』は、昨年ワールドカップ・サッカーでフランスを訪れたときの飛行機の機中で見た。ただ豪華客船が沈んで人々がパニックになっただけの、どうでもいい映画だった。『アルマゲドン』など、金と時間の無駄だと判断して無視している(その判断は間違っていないように思う)。
▼最近見た映画で最高傑作は、『アンダーグラウンド』だった。戦争という運命に翻弄される人々の苦悩は、人間の普遍的な問題を掘り下げたうえ、ユーゴスラビアという特殊な地域の問題もえぐり出していた。これは、友人にダビングしてもらったビデオで見た。
▼最近、最高に興奮した映画は、インド映画の『ムトゥ 踊るマハラジャ』だった。これは、とにかくおもしろかった。かつてのクレイジー・キャッツとドリフターズを合わせて、ジャッキー・チェンをくわえたようなハチャメチャB級ミュージカル喜劇。タミル語の饒舌な台詞、沖縄音楽に似たインド音楽、広大なインドの風景、それにダイエットを意識しないナチュラルな肉体美にふれるだけでも一見の価値があると思った。これも友人がダビングしてくれたが、あまりにおもしろいのでレーザー・ディスクを買って何度も見直した。
▼『ブルース・ブラザース2000』もおもしろかった。中味は前作とまったく同様。ただの焼き直しで、アメリカの田舎者たちを馬鹿にしたり、黒人教会のハチャメチャさを笑い飛ばしたりしながら、音楽の素晴らしさを主張する、という中味まで同じ。しかし、BB・キングやエリック・クラプトンまでくわわった音楽は最高で、主役が亡くなって欠けたにもかかわらず迫力不足にもならず、超B級娯楽ミュージカル傑作に仕上がっていた。これは、発売と同時にレーザー・ディスクを買って見た。
▼それ以前にさかのぼって心に残っている映画となると『デリカテッセン』や『メル・ブルックスの珍説世界史』くらいしか思い浮かばない。『スター・ウォーズ3部作』や『未知との遭遇』はおもしろかったが、『E.T.』は昔からよくある「愛犬物語」(子供が犬を拾ってきて「飼ってはいけない」という母親に隠れて育てる話)だった。ジョン・ウイリアムスの音楽に助けられただけの映画だ。
▼ビートたけしの作品は、監督デビュー作(タイトルは忘れた)と、たしか二作目の「3-4X」(とかなんとかいう映画)しか見ていないし(それからあと、見てみたいと思わなくなったし)、伊丹十三の映画は、どれを見てもそれほどおもしろいとは思えなかったし、そういえば、晩年の黒澤明が、『影武者』『乱』『夢十夜』と駄作を連発したころから、映画をつまらないと思い始めて、映画館から足が遠のきはじめたような気もする。
▼『シャル・ウィ・ダンス』にしろ『四股ふんじゃった』にしろ、映画としておもしろいとは思うが、とくに時間を割いて映画館に足を運ぼうという気にはさせてくれない。最近の日本映画は、どうもテーマが矮小で、ドラマとしての深みにも欠けている気がしてならない。これなら、小津安二郎や黒澤の初期の作品を、ビデオで楽しむだけで十分だ。
▼一方、ハリウッド映画は、映画の作り方があざとく(映画学校で学んだ手法通りに観客を喜ばせるだけで)、驚きに欠ける。これなら、アメリカン・ニューシネマと呼ばれた時代のハリウッド映画(『真夜中のカウボーイ』『明日に向かって撃て』『俺たちに明日はない』『カッコウの巣の上で』『時計じかけのオレンジ』等々)をビデオで繰り返し見ているほうが、新たな発見があっておもしろい。
▼いや、ちょっと待て。篠田正浩の『写楽』はなかなかおもしろかった。今村昌平の(『うなぎ』は見ていないが)『ええじゃないか』や『北斎漫画』もなかなかだった。それに、新聞社の裏面を鋭く描きすぎたために新聞の映画評にはいっさい無視されてしまったが、『社葬』という映画は、すばらしい出来だった。こうして数え上げてみると、なかなか素晴らしい映画がいっぱいあるではないか!
▼ゴダール、ルネ・クレマン、トリュフォー、フェリーニ、パゾリーニ、ヴィスコンティ、ゼッフィレッリ・・・。これまでに見た映画で「素晴らしい!」と感激した映画を書き出せ、といわれれば、このコラムのすべての文章が、作品の名前だけで埋まってしまうくらいある。にもかかわらず、最近の映画はおもしろくない・・・といってしまうのは、なぜだろう?
▼シェークスピアからバルザックまで、漱石、潤一郎から三島、筒井康隆まで、「素晴らしい!」と感激した小説を書き出せ、といわれれば、山ほどある。しかし、本屋に積み上げられた本の量を見れば一目瞭然。その数百倍、いや数千倍、数万倍に及ぶ駄作が並んでいる。本の場合は、駄作は買わなければいい。少し立ち読みして、買わないと判断もできるし、買っても、読み出してつまらなければやめればいい。金は無駄になっても、時間の無駄は防げるし、あまりにつまらない本だったなら、「コノヤロー!」と破り捨てて鬱憤を晴らすことが出きる。映画の場合も、駄作は見なければいい・・・はずなのだが、じつは、それが、なかなか難しい。というのは、最近は、テレビで映画を数多く放送するようになったからだ。あるいは飛行機の機中でまで、映画を見ることが出きるようになったからだ。
▼それだけ手軽に映画を見ることが出きるようになると、評判がいい(大きい?)映画となると、ついつい見てしまう。見終わったあと、その評判というのが、けっして「評価」などでなく、単なる「宣伝」だったと気づいても、もう遅い。失ってしまった時間は取り戻せない。
「コノヤロー!」と思っても、鬱憤を晴らす先もない。テレビさえなければ――情報さえ少なければ――自分の見たい映画だけを見ることができるし、そうなれば、素晴らしい映画に出逢う確率も高まり、映画はおもしろいと素直にいえるにちがいない。
▼「最近の映画はつまらない」という声は、よく聞く。私も、そう思いこんでいた。が、そうではないのだ。いい映画なんぞ、そうそうたくさん作れるものではあるまい。昔も駄作は多かったはずだ。が、昔は、そういう映画は、あまり話題にならなかった。「情報過多の時代」というのは、つまらない情報が表舞台に登場する時代のことをいうのだ。
▼書き忘れるところだったが、久々に映画館へ足を運んで見た映画は『恋に落ちたシェークスピア』だった。自分で選んで見た映画は、やはりおもしろかった。 |