おれはクルマを運転しない。免許を持っていないのだ。それはイッパシの日本人男性としては珍しいことらしいが、過去に必要と思ったことが一度もなく、クルマとは無縁のまま半世紀以上生きてきた。
生まれ育ったのは京都の祇園町。歩けば何もかも手に入る便利な都会のど真ん中。じっさい親父やおふくろを亡くしたときは、葬儀の準備、坊さんの手配、墓への納骨から、香典返し、遺産相続の手続き、土地名義の書き換えまで、すべて徒歩で済ますことができた。
そんな土地に長く住んでいたにもかかわらず、生前の親父から「免許を早く取れ」と何度も言われたのは、小さな電器屋の店の配達を手伝わせ、いずれは跡を継がせたかったからで、それを断固拒否したかったおれは、わざと免許を取らなかった、という事情もあった。
東京の大学に進んだあとも、下宿したのは世田谷の明大前や武蔵野の吉祥寺で、私鉄や国電の駅のすぐ傍。通学にも旅行にも何の支障もなく、スポーツカーをぶっ飛ばしたい欲望も起こらず、結婚して子供ができて鎌倉に越したあとも、クルマなしの生活で何一つ不自由なく過ごしてきた。
日常的にクルマを使って買い物や家族旅行をしている人から見れば、活動範囲が狭く不便に思うかもしれないが、おれにはクルマを使う便利さがわからないから、不便さもわからない。
じつは、携帯電話も、インターネットも、メールも、FAXも、同じだろう。不本意にもおれはそれらを使うようになったため、それらが使えないと不便を感じるようになってしまった。それが文明だというのであれば、文明とは世の中をどんどん不便にしていくものというほかない。
今年の桜が満開になった頃、世の中はガソリン税がどうの、暫定税率がどうの、道路特定財源がどうのと、大騒ぎした(今もしてるのかな?)。しかし、クルマと無縁のおれにとっては、他人事(ひとごと)としか思えなかった。
いや、そんなことはない、ガソリンの価格は流通コストに関係し、物価を左右するから無免許のオマエにも無関係ではない、と言う人がいるかもしれないが、そんな迂回した話までいちいち気にしている暇はない。
とはいえ、ガソリン税は道路特定財源で、その税金で道路をつくり、税金を払ったドライバーに還元する……などという屁理屈を信じるほど馬鹿でもない。だったら酒税で徳利や御猪口やワイン・グラスをつくるのか? 煙草税で煙管や灰皿や喫煙所をつくるのか?
道路をつくる建設会社や自動車メーカーは力が強い。それだけの話だ。力が強い人たちは、その力で国を動かそうとする。と言っても、対米外交や対中外交までは考えない。最優先するのは自分たちの懐具合。それを膨らませるために何十兆円とある我々の懐から搾り取った税金を、自分たちの有利に動かそうとする。苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)とは、何も江戸時代の農民だけの話ではないのだ。
もっとも、建設業や自動車産業で経済的に潤う人も大勢いる。そういう潤う人がもっともっと大勢出れば、日本は豊かで金持ちの国になる、と信じて戦後六十余年。一時は世界から「Japan as No.1」とまで言われたが、転げ落ちるのも早かった。
そこで、新たなパラダイムを国家的に築かなければならなくなったのだが、既得権益を握りしめた人々は、そう易々とは手放さない。
クルマは便利、だから必要、道路は便利、だから必要、携帯電話は……と言うが、それらは、じつは便利でもなければ必要でもない。にもかかわらず、それらを便利だと喧伝し、それらを必要としたのは、「経済」という怪物に多くの人々が踊らされてるからである。
経済とは、かつては「経世済民」(世を治め民を救うこと)のことだったが、今では単なる「懐具合」のことを言う。もちろん、それもよかろう。かつては「金は天下の回りもの」と言われたのだから。しかし近頃は「金は天下の周りの持ちもの」としか思えなくなった。どうやら世の中は、相当に悪い方へとパラダイム・シフトし始めたようである。 |