自伝を書けば小説(フィクション=虚構=ウソ)だといわれ、小説を書けば自伝だといわれる――。たしかフィリップ・ロスの言葉だったと記憶している。ならば、ノンフィクションを書けば読者になんといわれるのか?
ドキュメンタリー、ルポルタージュ、記録文学といった呼称が過去のものとなり、評伝とも歴史書とも称されずに「ノンフィクション=ウソではない」と堂々と称する読み物に対して、「やはりフィクションである」という指摘はしばしば耳にする。
が、そのような作品の中味に対する批評以上に、ノンフィクションとは、「作品以上に作者が脚光を浴びるジャンル」といえるのではないだろうか。
カポーティの『冷血』以来、メイラー、ウルフ、キージー、タリーズ、そして日本でも、石牟礼、柳田、立花、児玉、上之郷、山崎、上前、沢木、猪瀬・・・と、彼らの作品以上に彼ら自身の名前が広がり、定着した。
それは、ある意味で当然のことといえる。
多くの人々が(おぼろげとはいえ)知っていることの多い「事実」を題材とした作品は、必然的にそのテーマ以上に作者の視点、作者の切り口が注目されることになる。となると、読者や評者の視点は、自ずと作者に向く、というわけだ。
とはいえ、本書の場合は、そうはならない予感がする。雑誌『ニューヨーカー』の編集長であるデイビッド・レムニックなる人物の書いた『モハメド・アリ』は、「その闘いのすべて」という副題どおり、アリという希代のボクサーの「闘い」のすべてを見事なまでに鮮やかに書き尽くした。その結果、作者と作品の名前は消え去る運命にあるように思えるのだ。
まず作者は、刑務所あがりでマフィアに操られる「悪の権化」ともいうべきソニー・リストンと、白人の支持を受けた「優良黒人」であるフロイド・パターソンという二人のボクサーの「闘い」を描く。
そこへ、ボクシングというスポーツのファイティング・スタイルでも、外見の容貌の美しさでも、さらにモスリムという宗教を信じたことでも、過去にまったく存在しなかった新しいボクサー、モハメド・アリが、どのようにして割って入り込んできたか、ということを記す。
見事な構造。まったく異なる三人のボクサーが形作るトライアングル。その人生の対比から、三人に共通の底部――すなわち、アフリカン・アメリカンという人種と、その人種に対するアメリカ社会の差別の歴史、すなわちアメリカの歴史――が浮かびあがってくる。
本書を読めば、ボクシングというスポーツが、いかに政治的なものであるか、ということが理解できる。「戦争は政治の延長」というのであれば、(真剣勝負の)暴力行為はすべて政治の延長、といえるのかもしれない。その政治の季節の真っ只中、すなわちボクシングというスポーツの最全盛期にモハメド・アリというボクサーが出現した。
「同じヘビー級チャンピオンとはいえ、僕は一介のファイターにすぎなかったが、彼は歴史そのものだった」というパターソンの言葉に、アリという存在のすべてが語られている。
そして、メイラー、タリーズ、レッド・スミスなど、アリに関わった数多くのライターたちも、過去の歴史を構成した登場人物として描かれている。つまり、ノンフィクション作家たちも、歴史を構成するひとつの歯車だったことが鮮明になる。
スポーツという人間の営みを深く分析することによって、ここまで見事に歴史を再構築したノンフィクション作品は、ロバート・クリーマーの『英雄ベーブ・ルースの内幕』以来のことだろう。構成の鮮やかさという点では、ほかに類を見ない傑作といえる。
もっとも、クリーマーと同様、またクリーマーの作品と同様、レムニックという作者と彼の書いた作品が、後世まで語り継がれることはないようにも思える。
なぜなら、ノンフィクション作品として、ここまで歴史の構造を鮮明に再構築し、さらに人生の哀感までも鮮やかに描出した本書は、ノンフィクション作品という領域をはるかに超えてしまった。本書に書き記された歴史は、ただ事実として、また常識として、語り継がれるようになるに違いない。 |