最近、「おじいさん」の話を聞きたい、と思うようになった。
それは、不惑という区切りの年齢を超えてもなお惑いつづけるほかない評者の個人的事情からだけでのことではない。「おじいさん」は、いうまでもなく経験が豊かで、長く生きただけに誰もが波瀾万丈の物語を持っている。だから「おじいさん」の話はおもしろい。
なおかつ「おじいさん」は、その波瀾万丈の「生」のなかから多くの示唆に富む何かをつかみとり、後から生きる者にかけがえのない教訓を与えてくれる。そのような教訓を、現代という時代も欲しているはずである。
冷戦二極構造が崩壊し、国内社会のあらゆる改革が叫ばれ、世界がドラスチックな変化を迎えているにもかかわらず、「新秩序」も「国際化」も抽象的な言葉として「討論」の題材の域を出ない今こそ、長い「生」のなかから身をもって体得した「おじいさんの言葉」に耳を傾けるべきだろう。
もっとも、すでに現役を引退し、過去の思い出にすがって生きているような「おじいさん」の話は忌避したほうがいい。いまも現役で、自分で得た教訓を実際に生かしつづけている「おじいさん」の話でなければ、自慢話を押しつけられたり、カビの生えた訓戒を垂れられるのが関の山だ。
本書は、そんなふうに思うなかで出逢った最高にすばらしい「おじいさん」の話である。
〈富山県の伏木港(現高岡市)で徳川時代から代々廻船問屋をやってい〉た家に生まれ、〈俳人、画家、能役者といった人たちが入れ替わり立ち替わり〉訪れるなかで、琴、三味線、仕舞を習った少年時代・・・。
金沢のアメリカ人牧師の家で、〈音楽と英語を徹底的に叩き込まれ〉、〈激昂すると着物を引き裂いたり、グランドピアノを引っくり返したり、まるで女相撲の力士のよう〉な夫人に閉口しつつ、〈棒を持って金沢の町じゅうを駆け回って、犬を叩き殺したりする、どうしようもない〉息子に英語を教えた中学時代・・・。
そして二・二六事件の日に上京し、〈自殺しようかという気持ちで、北海道から樺太までわたろうとし〉、〈稚内で足どめを食っていたレビュー劇団〉で、ギターやピアノを弾いた学生時代・・・。
・・・等々、本書には、波瀾万丈が満載されている。
しかも、その波瀾万丈は、中ソ紛争のなかでアジア・アフリカ作家会議の議長をつとめたり、ベ平連活動で脱走米兵を自宅にかくまったり、大著『ゴヤ』執筆のためにヨーロッパへ渡ってスペインに定住したり・・・と、つい最近までつづく。
そんな現役人生のなかで、「空間(国家)」と「時間(歴史)」という、人間が生きるうえでの礎(いしずえ)について、きわめて基本的な教訓が述べられている。
〈歴史意識が薄いということは、危機管理のための知恵の出所がないということです。(略)歴史を見定める、あるいは見直すこともせずにただ現在から未来を見るだけでの未来デザインは、改作とはいえず、フィクションにすぎません〉
日本の著名な作家はもちろん、ネルー父娘、フルシチョフ、サルトル、ソルジェニーツィン、クンデラ・・・など、著者の「めぐりあいし人びと」がぞくぞくと登場するなかで、堀田文学の背景を知ることができるのはもちろん、本書は「朝まで生テレビ」などの歴史意識を欠いたテレビ討論会の対極にある、真に未来を考えるための貴重な「遺言」といえよう。 |