わたしは、音楽が大好きだ。
音楽は人間の感情を掻きたて、興奮させる。と同時に、さまざまな想像力も喚起してくれる。しかし、リズムとメロディとハーモニー・・・たったそれだけで、なぜ、かくも心を揺り動かされるのか?
人間は、つまるところ原子と分子によって構成されている。したがって、からだの微細な各部は、絶え間ない熱運動をくりかえしている。つまり、つねに「振動」している。
大ヴァイオリニストのイェフディ・メニューヒンは、『人間と音楽』(日本放送出版協会)のなかで「音楽の歴史」を書くにあたり、バロックから現代音楽へ、あるいは原始的なリズムからロックへ、という安易な「文化史」的記述を排除し、光しか感知しない(音を感じない)とされるアメーバのような生物の存在から説き起こす。そして、すべての生命体の≪体内の奥深くには、けっして静まることのない固有の振動音があり、自分では気づかないかもしれないが、これが私たちすべての音楽的な核になっている≫と断言する。
≪私たちは、相手の霊気(vibe=vibration)を察してそれなりの反応を示している≫のであり、≪弓でこすってもいないのに、隣の弦のすぐそばで共鳴して震えるヴァイオリンの弦のように、私たちは振動する≫というのである。
そこに、音楽が成立する。
≪音楽には、言葉を介在させずに感情と思考とを結びつける力がある≫
≪人間の感情を系統だて、論理的な秩序に変えてしまうところに音楽の不思議さがある≫
このような前提に立ち、シュメール、エジプト、中国の古典文明の音楽を探究し、ルネサンス時代の初期キリスト教音楽、バロック、古典、ロマン派、さらにジャズ、ミュージカル、ビートルズ、ローリング・ストーンズ・・・と語られる音楽の歴史は、まさに「天体の音楽」ともいうべき地球規模の壮大な交響詩として、読み手の心を鷲掴みにする。
ジャズ・ヴァイオリニストのステファン・グラッペリと共演したこともあるメニューヒンは、カタブツのクラシック演奏家ではない。が、どうもロック・ミュージックだけは苦手のようで、ローリング・ストーンズの音楽を、≪確かな旋律を持っているビートルズの音楽とはまったく違って、聴覚を麻痺させる音の壁が立ちはだかっているという感じ。(略)感情を芸術に変える手順を知らないので、感情ならぬヒステリーしか引き出せない≫と、いささか否定的に語っている。
とはいえ、メニューヒンは、古く長い歴史と近代以降の電子音楽にいたる急速な発展を経て、行き着くところまで行き着いた結果、音楽は、≪古典、ポピュラーの区別なく、音楽本来の役割を取り戻しつつある≫と書く。日本の風鈴やバリ島のケチャや、アフリカのリズムに興味を持つメニューヒンは、現代音楽が「近代テクノロジー」や「金銭」に毒されながらも、そのまま終焉をむかえるのではなく、やがて近い将来「大地」と「人間」に根ざすものとなるだろう、と結論づけている。
それを楽天的な循環史観ととるか、ポストモダンを見据えた天才音楽家の豊かな感性の賜物ととるか、メニューヒン個人にたいする評価はさておき、≪人間の感情を揺さぶるあらゆるもの≫は、どうやら「先祖帰り」をする時代をむかえた、といえそうである。
じじつクラシックの音楽界では、古楽器による演奏がさかんになり、正統的な音楽史からははずれたサティのような作曲家や民族音楽が高く評価されるようになってきている。さらに、ヘルベルト・フォン・カラヤンのようなマス・プロダクトの商業主義に疑問を投げかける声も生じ(ヴェルナー・テーリヒェン著『フルトヴェングラーかカラヤンか』音楽之友社)、小説の世界でも、神話の物語原型に則した作品が数多く見受けられるようになった。
ということは(音楽界の事情は詳しく知らないが)、いまなお人工芝の野球場やドーム球場ばかり建設している日本のスポーツ界(野球界)は、どうやら“近代の呪縛”から逃れられない“スポーツ文化後進国”の哀れな実情というほかなさそうである。 |