私の父は大正7年生まれ。帝国陸軍に三度応召。日中戦争に参加した。最後は軍曹の分隊長として武昌漢江付近で終戦を迎え、武装解除のあと上海経由で帰国したという。
あまり多くを語らなかったが、昭和56年の正月、当時東京で暮らしていた我が家を母と一緒に訪れた父が、突然「天皇に会いたい」と言いだしたときは驚いた。そこで親父夫婦と女房を引き連れ、皇居の新年参賀に足を運んだのだが、昭和天皇の姿を見るなり、父は「もういい」と言って、万歳も唱えず踵(きびす)を返した。
その父が亡くなるまで、京都の小さな自宅の居間の棚に置いてあったのが、軍隊時代の飯盒と水筒だった。私が小学生の頃、「飯盒のメシはいつも不味かった。美味いと感じたのは、ほんの何回かだけやった」と何度も聞かされた。
勲六等の勲章も持っていたが、「そんなもんは誰でももらえる。たいしたことない。それより勲章はココにある」と言って、よく左目の下にある疵痕を指さした。そこには「小指の先ほどの手榴弾の欠片(かけら)」が埋まっている」らしかった。他にも右の上腕部と左足の親指にある銃創を見たことがあった。が、「どっちも貫通やったから、勲章は残っとらん」と言っていた。
目の前で手榴弾が爆発して顔面から大量の血が噴き出し、目の前が真っ赤になったときは「これで日本に帰れる」と思ったらしい。貫通なら「ヨーチン(ヨードチンキ)を塗られるだけやけど、これは重傷に違いないと思ったときは嬉しかったでぇ……」と冗談めいた口調で、晩ご飯のあとに話し出したときもあった。
残念ながら帰国は叶(かな)わず、上海付近での約1ヶ月の入院のあと再び前線に戻され、終戦を迎えたという。
晩年になって昭和天皇の顔を見た数年後、脳梗塞を患い磁気共鳴画像装置(MRI)の検査を受けたときは、手榴弾の欠片が磁気に反応し、顔面の皮膚が引っ張られて検査が受けられなかった。
「勲章が暴れ出しよった」
何事も笑顔で笑い飛ばすことの多かった父が亡くなったとき、火葬場で亡骸(なきがら)となった頭蓋骨の顔面から手榴弾の破片を――いや、父の勲章を取り出した。
それは今、京都の某宝石店から事情を話していただいたダイヤモンドの取引用のケースに収まって、我が家の仏壇に鎮座している。
最前線での戦争を経験した父の飯盒と水筒と勲章。それを我が子に、どのように引き継げばいいのか、少々悩ましい。 |