私はオペラも大好きだが、歌舞伎も大大大好き……という以上に、師走の顔見世で有名な京都の南座に歩いて1分という祇園町に生まれ育ったので、歌舞伎は常に身近に存在した。
父も母も芝居と言えば歌舞伎と思っていたくらいで、母親は晩御飯の用意を済ませたあと、開演10分前くらいに「今日は(中村)雁治郎の曾根崎(心中)やから……」などと言いながら和服に着替え、南座へ小走りに駆け出したのを覚えている。
父親は、「知らざあ言って聞かせやしょう」とか「こいつぁあ春から縁起がいいわい……」などと、日常の会話のなかで歌舞伎の台詞を口にしたり、晩酌で気分が良くなると、旅の〜衣は〜篠懸の〜と、『勧進帳』の長唄の一節を唸り出したり……。
私が「就職」を意識しないまま、いつの間にかフリーランスの物書き稼業を始めたのも、父親がよく口にしていた、「せまじきものは宮仕え〜」という『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』の『寺子屋』の名台詞が頭に刷り込まれたからかもしれない?
もっとも、歌舞伎に本気で興味を持ち始めたのは中学生から高校に進む頃で、幼稚園や小学生で南座に連れて行かれるのは、苦痛以外の何物でもなかった。
それでも「慣れ」というのは怖ろしいもので、いつの間にか歌舞伎に「慣れ」て、中学や高校で歌舞伎の集団鑑賞があったりすると、友人に向かって「ここで弁慶が泣くところが一番の見所!」などとしたり顔で説明したりするようにもなった。
さらに高校1年のときに、驚くべき事件が起こった。私の通っていた私立高校の50歳くらいの外国人英語教師が、南座の舞台に立ったのだ。
今は行われなくなったらしいが、かつては顔見世興行が終わったあとの大晦日の前日に、顔見世で使った舞台装置をそのまま用い、歌舞伎役者の指導を受け、京都の町の旦那衆や祇園町に綺麗所が舞台に立つ「素人歌舞伎」という催しがあった。
その年の演(だ)し物は『白波五人男(青砥稿花紅彩画=あおとぞうしはなのにしきえ)稲瀬川勢揃いの場』。
日本駄右衛門や弁天小僧など五人の白波(盗人)が河岸に勢揃いして名乗りをあげる有名な場面に、大柄で見事に禿げ上がった頭と、白人特有のピンク色の笑顔で人気があったジャック・プリューダムというポーランド人が、丁髷の鬘に着流し姿で番傘を持って登場。外国人特有のナマリ方ながらも、「サテ、ドンジリニ、ヒケエシワァ〜……」とやったものだから客席は大ウケ。
外国人が歌舞伎を……というだけでも拍手喝采なのに、じつは我が高校はカトリック系で、その英語教師は神父。日頃は神に仕える厳格な神父が、「白羽に脅す人殺し……」「念仏嫌えな南郷力丸(発音は、ネンプッツ・キレエ〜ナ〜ナンゴ・リッキマ〜ル〜だったと記憶している)」と、犯罪人の台詞を堂々と口にしたものだから、我々生徒には二重三重にバカウケ。
「イヨッ、先生!」「神父様!」と掛け声を飛ばした先輩もいて、大盛りあがり。残念ながらまだ1年生だった私は掛け声を出す勇気はなかったが、歌舞伎の世界はナンデモアリと納得し、ますます歌舞伎が大好きになったのだった。
(2014年)4月3日、建て替え工事で閉鎖されていた東京東銀座の歌舞伎座が、いよいよオープンする。最近の中村勘三郎、市川団十郎と二人続いた大看板の逝去を乗り越え、さらに面白い舞台が見られるに違いない。えっ? 歌舞伎は苦手ですって? ご冗談でしょ。オペラも歌舞伎も大衆娯楽。所詮は慣れですよ。 |