私は生まれが京都祇園町で、19歳まで彼の地で過ごしたから、京都の本はいっさい読んだことがない。
京都のことを大好きだと書いた本も、京都のことを大嫌いだと書いた本も、結局は京都は素晴らしいと書いてるだけのこと。かつて「アンチ巨人も巨人ファン」と言われた時代があったが、それと同じで、巨人という存在がいかに日本のプロ野球の進歩を妨げているかということを批判するのに、「好き/嫌い」で語っていては読売巨人軍という会社の戦略に巻き込まれるだけなのだ。
だから京都に関する本もすべて、結局は京都というブランドに寄り添って金儲けしたいだけなんですよね。
かくいう私も四半世紀ほど前に、『京都祇園遁走曲』と題した小説を発表して金儲けを企てたが、思ったようには売れなかった(NHKの「銀河ドラマシリーズ」で、『京都発ぼくの旅立ち』と題して25回の連続テレビドラマにはなって、結構視聴率は高かったのでしたけどね)。
京都は古くからの都会のため、お公家さんの末裔を除けばほとんどが地方出身者。それでも誰もがいつしか京都弁を使うようになり、京都人の細かさ、ケチ臭さ、嫌味さを身に付ける。
とはいえ、どっちかと言えば京都人には優しい好人物が多く、それを上辺だけと批判する人も多いけれど、人間関係はしょせん上辺で成り立っているもの。
小悪人はいても大悪人はおらず、寺の和尚の悪口はいっても信心深く、古いようでいて新しく、保守的なようで革新的で……というようなことをすべて物語に落とし込んだところが、理解されにくくなってしまったようだ。
京都ブランドで一儲けしようと思えば、やはりどんなに論理が浅薄になろうと、「良い/悪い」「好き/嫌い」をはっきり打ち出したほうがいいのだろう。ミシュランの星の評価と同じ。
京都にはミシュラン・ガイドには絶対に載らない素晴らしいバーや料理屋が多いけれど(そもそもイイお店は一見さんお断りですから、調査員は入れませんからね)、世の中はふつう目に見える星の数の評価で動くというわけだ。
そんななかで私の朋友である宗教学者の島田裕巳が、「京都の本」を書き、私に紹介文を書けとオハチがまわってきた。正直いって拒否したかった。京都というワケのわからない時空間を、「良い/悪い」や「好き/嫌い」で語られては堪らない。
しかし、それは杞憂だった。目次に目を通しただけで、そんな心配は吹き飛んだ。
そうなんですよ。伏見稲荷の千本鳥居なんて、私が餓鬼のころには誰も騒がなかったし、そもそも鳥居の数も多くなかったんですよね。ウチの近所の八坂神社も、誰が祀ってあるのか誰も知らず、ただ誰もが八坂さんとか祇園さんと呼んでお参りしていただけなんですよ。
苔寺なんて、べつにどうってことのない苔がチョロチョロッとあるだけの古い寺だったし、金閣寺がキンキラキンになったのも、つい最近のことですよね。
それが今では世界中から観光客を集めて……。なるほど本書に書かれているように、「京都は一日にして成らず」なのだ。
「一日にして成らず」の先輩格ローマは、古代都市としていったん完成したのち、新たに近代都市ローマが、まったく別物として建設された。そのことを思うと、明治以降の近代になって赤い鳥居を増やしたり、昭和の火災のあとに壁までキンキラキンにしたり……という京都の町は、現在もアンダー・コンストラクションなのだ。
そういえば、かつて梅棹忠夫氏にインタヴューしたとき、京都が古都保存法に組み入れられたことについて、「馬鹿な法律で京都を奈良や鎌倉と一緒にされては困る」と怒っておられた。「京都は古都ではなく、いまも都なんですよ」。
この言葉を聞いた当時は、天皇はんはちょっと東京へ御幸してはるだけどすがな……という典型的京都人の嫌味なプライドとも思ったが、本書を読んだあとは、なるほど京都はいまも都を建設中なのかもしれない、と気づいた。
ならば、その建設が完成されたとき、京都はどんな姿になっているのだろうか?
島田さん、また今度、祇園のバー『酒肆G』で、和服姿のママさんがシェイカーを振る京都のカクテルでも飲みながら、「全世界の観光の都・京都」の未来でも話し合いましょうや。 |