6月18日開幕の沖縄大会を皮切りに今年もまた夏の高校野球の季節が幕を開けた。
全国で約3千6百の高校が参加。1回戦が終わると半数の1千8百校が消える。しかも勝ち進んで甲子園球場の全国大会に出る高校は真夏の炎天下、「熱射病の棄権! 屋外活動は避けて!」と警告が発せられるなかで試合を行う。
こんな大会が教育的と言えるのか? と私はスポーツの原稿を書くようになって半世紀に渡って批判し続け、改革を主張してきた。
が、コロナ禍の中断でも改革案は示されず、今年もまた「真夏の熱狂」が繰り返されるようだ(今年の甲子園大会は、早朝と夕方以降の二部制になるらしい。が、それは本質的な問題解決にならないだろう)。
最悪なのはベンチにいる大人(監督)の存在だ。
野球で最も面白く楽しい営みと言える「作戦」を、高校生に考えさせず、大人が考え、命令としてサインを出す。
高校野球とは、大人が高校生を将棋の駒のように使い、大人が楽しむ野球のことか? と疑いたくなる。
さらに昨年、日本高等学校野球連盟(高野連)が試合での投手の球数制限を「1週間500球」と発表したのには驚いた。
メジャーでもプロ野球でも「1試合100球」がほぼ限度とされるなか、まだ骨が発達中の高校生に1週間に5試合分の登板を「許可」したのだ。
男子の骨は25歳まで成長を続けるとされているが、これより球数を少なく厳しく制限すると、多くの優秀な投手が所属する「有名強豪校」ばかりが有利になるからだという。
だから「無名弱小校」の投手は肩や肘を壊しても頑張れというのか?
そもそも娯楽の少なかった大正時代に新聞の販売促進から生まれた高校野球は既に寿命が尽きたのだ。
軍隊の閲兵式のような開会式の入場行進も、スポーツ組織として時代錯誤の男女別組織も、ネット裏4千2百円のプロ並みの入場料も、すべてが限界。
甲子園大会を頂点とする高校野球は、今年を最後に根本的な大改革が必要なはずだ。
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