野球が大好きだった正岡子規は野球に関する俳句や和歌を数多く残した。
恋知らぬ猫のふりなり球遊び
夏草やベースボールの人遠し
今やかの三つのベースに人満ちてそぞろに胸のうち騒ぐかな
打ち揚ぐるボールは高く雲に入りて又落ちくる人の手の中に
それから約一世紀後、俵万智は次の一首を詠んだ。
日本を離れて七日セ・リーグの首位争いがひょいと気になる
前者がボールゲームの具体的愉しさを描写したのに対し、後者から目に浮かぶのは新聞の順位表でしかない。現代の情報化社会というのは、スポーツそのものの姿を消し、結果のデータのみが残るのか?
自らボートの選手として1932年のロス五輪に出場した田中英光は、その経験を元に、陸上女子選手との恋愛小説「オリンポスの果実」を手記の形で書いた。
が、そこにもスポーツの詳しい描写はほとんどない。
「ボオトを漕ぐ苦しさについて、ぼくは、敢(あえ)て書こうとは思いません。漕いだものには書かなくても判り、漕がないものには書いても判らぬだろう」……。
日本のスポーツ小説やスポーツ・ノンフィクションの多くは、スポーツそのものの愉しさや素晴らしさを描く以上に、「人間ドラマ」と称して選手の「人生ドラマ」に注目する。
一方、アメリカの野球小説には、野球そのものの面白さを描いた作品が多い。
J・サーバー「消えたピンチヒッター」には、メジャーに1試合だけ実在した身長1メートル以下の打者が登場。監督は満塁のチャンスで四球押し出しの決勝点を狙う。が、投手の投げたスローボールを、この打者がちょこんと打って抱腹絶倒の大騒動の結末となる。
W・L・シュラムの「馬が野球をやらない理由」では、走攻守ともに抜群で、ドジャーズで大活躍する「馬」が登場。ところがある日、地方球場の横に競馬場があるのを発見した「馬」は、自分が野球をやっていていいのか、大いに悩み始める。
R・クーバー『ユニバーサル野球協会』は、自ら作った野球ゲームに熱中するあまり、現実と虚構の区別がつかなくなる男を描き、G・プリンプトン『遠くから来た大リーガー』では、ヒマラヤでの修行で時速270キロの剛速球を身に付け、メジャーで大活躍しながら急に消え去る「客人(まれびと)譚(たん)」が神話のように描かれる。
いや、日本にもそんなメジャー級の作品はある。
五味康祐『一刀齋は背番号6』は、奈良の山奥から出てきた一刀流17代の末裔が巨人で大活躍。実在の女優を相手に「色道修行」にも挑もうとする破天荒な物語。
野球ではないが、池波正太郎「緑のオリンピア」は、試合に悩む三段跳び選手の前に妖精が現れ、スポーツの素晴らしさを教える。
虫明亜呂無は「風よりつらき」で、不運にも全盛期に戦死した大投手沢村栄治の物語を、妻(女)の目を通して鮮やかに描いた。「栄治は野球がさかんになれば、ますます、この世に復活し、やがては永遠の生命をかちえるにちがいない。でも、女は恋をしたときしか生きていない」。
さらに井上ひさしの野球小説(「下駄の上の卵」「ナイン」等)、倉橋由美子の陸上競技小説(「一〇〇メートル」)、岡本かの子の水泳小説(「渾沌未分」)、安部公房のボクシング小説(「時の崖」)、新田次郎の山岳小説(「槍ヶ岳開山」他)……等々、本連載で紹介した他にも、日本には数多くの見事な「スポーツ小説」が存在する。
が、昨今はスポーツがテーマとなると何故かフィクションよりもノン・フィクションが注目されるようになった。
市川崑は半世紀前に映画『東京オリンピック』を撮るにあたって谷川俊太郎らとシナリオを作り、その冒頭で、こんなことを書いた。
「人々は『事実は小説より奇なり』という言葉を無邪気に受け入れている。現在の我々に欠けているものは作り物を尊ぶ気風だ」。
このシナリオがもっと世間に知られていたなら、名作スポーツ映画に対する「記録か芸術か」などという愚かな論争も起こらなかっただろう。
この市川らの警句は今も生きている。 |