いまから十年くらい前、祇園町で見習いをしていた舞妓が何人か、置屋から逃げ出すという事件が起きた。厳しい「お母さん」のしつけに耐えられなかったのか、はたまた、綺麗な衣裳に憧れてはみたものの、封建的なしきたりや人間関係が嫌になったのか、詳しい事情は知らないが、現代ギャルと伝統の世界のギャップという構図を思えば、さほど驚くべき事件とは思えなかった。
が、その事件を報じた東京のテレビ局のニュース・キャスターの言葉には仰天させられた。
「男たちの宴会を盛りあげる舞妓がいなくなったところで、何の問題もありません。それよりも、いま、京都で憂うべきは、京の町屋が次々と潰され、醜いペンシル・ビルに変貌していることです。そのような京都の町並みの破壊こそ大問題で・・・」
その言葉を聞いたとき、わたしは、思わず「冗談じゃない!」と、テレビ画面に向かって叫びそうになった。
「われしのぶ」の髷を結い、だらりの帯を絞めている舞妓は、「男たちの宴会を盛りあげる」ために存在しているのではない。その衣裳は室町時代の京の商家の娘の姿であり、地唄を謡い、京舞を舞い、華道、茶道、習字、日本画を学び、大谷崎(谷崎潤一郎)にも絶賛された舞妓たちの末裔である彼女らは、京の文化の実践的担い手にほかならない。
そんな彼女らを支える置屋の「お母さん」がいて、「ねえさん」と呼ばれる芸妓さんがいて、音曲を演奏する地方さんたちがいる。さらに、着付けをする「おにいさん」たちがいて、仕出し屋さんがいて・・・それらの人々の日常の暮らしを支える八百屋、漬物屋、乾物屋、豆腐屋、肉屋、扇子屋、三味線屋、草履屋、下駄屋、簪屋、うどん屋、風呂屋、電器屋・・・等々があって、祇園町は成立しているのである。
その室町以来の「日常」は、月日の経過とともに、いつしか現代では「非日常的な空間」と見られるようになった。祇園町が変わったのではない。多少は変わっただろうが、本質は変わらない。周囲の世界が大きく変わったのだ。
そして、その「非日常的」な姿を求めて、全国各地から、いや、世界中から多くの観光客が訪れる。しかし祇園町では、いまも大勢の人々が生活を営んでいる。その生活のなかから、文化と呼びうるものが滲み出しているのだ。生活のないところに、文化など存在しない。町屋の外観をどれだけ守り、飾ったところで、所詮は博物館にしかならない。
花見小路の「一力」を中心とした祇園甲部、「枕の下を水がながるる」と吉井勇がうたった祇園新橋(旧・祇園乙部)、「鴨川をどり」の先斗町、「京おどり」の宮川町――それらの町の総称としての祇園町。それは、けっしてテーマパークなどではないのだ。
とはいえ、祇園町の商店街の電器屋に生まれ育ったわたしは、「祇園の生活」が嫌で、外に飛び出した。いま振り返れば、若気の至りといえるのかもしれない。が所詮は、文化の担い手たるべき資質に欠けていたのである。生まれ直すことができたとしても、たぶん、同じことをするだろう(と思う)。
いつだったか、京都のテレビ局で「祇園町の未来を考える」といった内容の討論番組に出演したとき、「祇園の舞妓さんの存在価値をはじめ、祇園の文化が、外の人に正しく理解されていない」といった発言をしたところが、安藤孝子さんにこういわれた。
「それをきちんと書いておくれやすのが、外にお出やした先生の仕事どすやおへんか・・・」
いやはや、そのときは、司会をしていた同じ祇園町出身の歌手のばんばひろふみさんと一緒に、頭をかきながら苦笑いするほかなかった。
ほんまに京都はコワイ。祇園町の磁場は強い。嗚呼、観光客の人たちがうらやましい・・・。 |