指揮者やピアニスト、ヴァイオリニストやオペラ歌手、さらにコンサートホールやオペラハウスや作曲家の生まれ故郷……。それらを写真におさめ、まるで音楽が聴こえてくるような写真を、長年にわたって撮りつづけてきた「音楽写真家」の木之下晃が、まったく新しい試みの肖像写真集を完成させた。
これは、普通の肖像写真ではない。
ナダールやカーシュから、土門拳や林忠彦まで、古今東西の名だたる肖像写真家の作品を勉強していた写真家の前に、「天から降ってきた」としか思えない一個の「不思議な石」が出現した。
本当は1974年に、家族でバーベキューに行った相模川上流の水無川の河原で拾っただけの「ただの普通の石」らしい。が、「卵にも見えたり、いろんなものに見える」この石を、写真家は被写体のモデルに持たせた。
そして自由にポーズをとらせ、シャッターを押した。その結果できあがった200人の肖像は、他に類を見ない見事な傑作揃いの写真集として実を結んだ。
指揮者のクラウディオ・アバドは石を額の上に乗せ、ジャグラーのようにふざけて見せた。それは日頃の温厚な彼の性格からは、絶対に想像できないパフォーマンスだった。
演出家のフランコ・ゼッフィレッリは、自分の頭脳で考えた発想の「形」を取り出すかのように、石を前頭葉から抜き出すような仕種をしてみせた。それは振付師で演出家のモーリス・ベジャールが、まず石で目を押さえ、次に石で口を塞いだあとに見せたのとそっくりの仕種だった。
フルーティストのジャン=ピエール・ランパルは、卵のような石に齧り付いて食べようとし、パントマイマーのマルセル・マルソーは、石をパートナーに即興の舞踊を披露し、オペラ歌手のフェリシティ・ロットは、石から聴こえてくる音楽に耳を傾け、北京五輪開会式の演出も手がけた映画監督のチャン・イーモウは、「世界を我が目の中に取り込む」といわんばかりに、強烈な眼力で石を睨みつけた。
そして指揮者のピエール・ブーレーズは、まるで石を卯化(うか)させようとするかのように、大切に両手の上に乗せてみせ、同じく指揮者の佐渡裕は、ソファに横たわり、そのパワーで疲労回復、癒やされようとするかのように、目と目の間に石を押し当てた。
その他、オペラ歌手のプラシド・ドミンゴやホセ・カレーラス、作曲家のタン・ドゥンや武満徹、ピアニストのキーシンや内田光子、指揮者のサイモン・ラトルやズービン・メータ、振付師のローラン・プティ、バレリーナのマヤ・プリンセツカヤ、ムーミンで有名な作家のトーベ・ヤンソンなどなど、様々な人物が、同じ一個の石を手にして、その石と、あるいは、その石で、「何か」を表現してみせた。
そして写真家は、その一瞬を見事にとらえたのだった。
被写体はすべて世界一流の表現者たちである。写真のモデルとして「石」を与えられたときも「何か」を表現しようとする。それは彼らの本能だろう。その意味で、この写真集に収められた肖像写真は、「真」を「写」したものではなく、「何かを演じた瞬間」ともいえる。しかし、それこそ、表現者(パフォーマー)たちの究極の表現(パフォーマンス)の瞬間といえるものになった。
「石を持ったとき何をするかということは、人生がそのままそこに出るのですね。その人が何十年か生きてきたところの一瞬が表れるんです」
と写真家は巻末の対談で語る。
世界一流の表現者たちによる究極の表現――彼らの人生の表現――とは、見事なものであるだけに、ある意味で、怖ろしいものでもある。
そんな被写体にさせられた表現者の誰もが、すべて温かみにあふれた表情でとらえられているのは、写真家の表現者(パフォーマー)たちに対する敬意の念の結果だろう。
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