近代スポーツは産業革命の所産、との説がある。産業革命の結果、多くの人々が一定の賃金と余暇を獲得。そこからスポーツをやったり見たりする文化が生じ、1857年世界最初のサッカー・クラブがイギリスに誕生した、というのだ。
しかしそれだけでは、古代ギリシャでスポーツと呼びうる身体競技文化が発展し、オリンポスの祭典(古代オリンピック)が千年以上続いた理由がわからない。古代ペルシア帝国、イスラム帝国、中華帝国等々、豊かな財と文化を築いた地域でスポーツが生まれなかった理由も、説明できない。
そこで社会学者のノルベルト・エリアスは、「スポーツは民主主義の所産」という説を展開した(多木浩二『スポーツを考える』)。
暴力(戦争)で社会の支配者が決まる時代に代わり、話し合いや選挙で社会のリーダーを決める非暴力的な民主主義社会になると、多くの暴力的行為もゲーム化され、レスリング、ボクシング、フットボールなどのスポーツが生まれたというのだ。先の疑問も氷解する。
嘉納治五郎が武士の殺人技の一種である柔術をゲーム化し、ルールを整え、柔道を創出したのも、「万機公論に決すべし」と、立憲君主制下で議会制民主主義社会に向かう体制が整ったから、と言える。
そして柔道は世界に広がり、オリンピックの正式スポーツとなった。が、我が国では柔道などの武道を、スポーツと呼ぶことに違和感を覚える人が少なくない。
三島由紀夫は『体験的スポーツ論』で、ボディビル、ボクシング、剣道と出会った体験をもとに、「選ばれた人たちだけが美技を見せるのではなく、どんな初心者の拙技にも等分の機会を与へられる(略)スポーツ共和国」という、Jリーグの理念の先取りのような提案を1964年東京五輪の最中に発表した。
しかし一方で、剣道だけは「柔道みたいに愛想のよい国際的スポーツにならず(略)反時代性を失はないこと」を望んだ。
そんな理想の実践者として三島は、大学剣道部の主将を主人公にした小説『剣』を著した。が、剣の求道者は同僚の学生と衝突し、自らのストイシズムから自死する。武士道の精神性を受け継ぐ剣道が、新しい時代に受け入れられないことを、大作家は熟知していたようだ。
中島敦は第2次大戦中に発表した小説『名人伝』のなかで、中国の戦国時代に弓術の奥義を究めようとした男を主人公にして、「反時代性」を夢幻的に描いた。
まず師から瞬きしないことを命じられた男は、鍛錬で睫(まつげ)と睫の間に小さな蜘蛛が巣をかけるまでに至る。的(まと)を大きく見る訓練では虱(しらみ)が馬ほどに見える域に達する。さらに様々な修練の結果、的の真ん中に当てた矢の後尾(括=やはず)に次の矢の先端(鏃=やじり)を次々と当てる妙技を、百本の矢の速射で実践できるようにもなる。
そして師と対決し、矢は「中道にして相当り、共に地に堕(お)ちる」技を発揮する。が、対決を望む弟子に未熟さを感じた師は、さらなる老師を紹介し、男はついに弓を捨て、弓術など忘れてしまう「不射之射」の境地を会得するに至る――。
大正時代に来日した哲学教授のドイツ人オイゲン・ヘリゲルは、弓術を学んだ体験記として『日本の弓術』を著し、「神秘的合一」「仏陀の発現」「不発の射」「無術の術」に至ることを理想とする「スポーツではない弓術」について詳述した。
フランスの哲学者ロラン・バルトが『レッスルする世界』で、スポーツではなく見世物としてのプロレスの神話性を讃え、アメリカの作家ノーマン・メイラーは『一分間に一万語』で、リストン対パターソンのボクシング世界タイトル戦のなかに実存する野性の人間を描き、近代(スポーツ)的理性を超克する一つの西洋的方法を提示した。
しかし剣道や弓道は、そんな西洋から超然と自立。一方柔道は、西洋に呑み込まれた。我々は日本社会(スポーツ文化)の多様性として、それを肯定的に受け入れるほかないだろう。 |