どんな映画が好きですか? と訊かれて「戦争映画」と答えるのは、少々勇気を要する。しかし、好きなものは好きだというほかない。私は「戦争映画」が大好きである。
その理由の第一は、子供の頃に戦争のなかで育ったからである。もちろん私は戦後生まれで、『戦争を知らない子供たち』と歌った人たちよりもまだ若い。しかし周囲には戦争があふれていた。しかもカッコイイ戦争が……。
少年雑誌のグラビアは戦艦大和や巡洋艦鳥海の断面図…といったものばかり。漫画も『加藤隼戦闘隊』や『紫電改の鷹』…。
だから海軍の零戦が20ミリ機銃2門、7.7ミリ機銃2門、陸軍の隼が12.7ミリ機関砲2門…などということを、いまでも記憶している。
その当時、少年雑誌の編集に携わっていた大人たちは、戦争の真っ直中を体験した人たちで、戦後の少年たちに胸をわくわくさせる素材を探したら、自分たちの「引き出し」のなかには、大和や零戦しかなかったのだろう。スーパーカーやガンダムが登場するのは、まだずっと後のことである。
誤解をおそれずに書くなら「戦争映画」には一種の爽快感がつきまとう。カッコイイ機械(マシン)や威風堂々の編隊が、すべてを破壊する。破壊の快感の規模は「アクション映画」をはるかに上まわる。
ところが、そこに人間の大量の「死」がつきまとう。「死」の規模の大きさもさることながら、その「死」は、ほとんどすべてが戦争に駆り出された普通の人々の理不尽な「死」である。
「戦争は政治の延長」と看破した言葉があるが、その「死」は、政治の犠牲というほかない。漱石は、小説『虞美人草』のなかで、人生のあらゆる悩みは「喜劇」であり、最後に「生死」の問題が残る。それだけが「悲劇」だ、と書いた。
カッコ良さと爽快感を伴うなかでの最大の悲劇。戦争映画ではその両極端が露顕する。
これほど不条理なものはない……とぼんやり感じたのは、中学生のときに『史上最大の作戦』を見たときのことだった。圧倒的な物量で「戦争(政治)を再現」して見せたこの映画には、細々とした「個人」の悲劇のエピソードがちりばめられていた。
さらに成長してから見たオリバー・ストーン監督の『プラトーン』では、ヴェトナム戦争に「カッコ良さ」など微塵もなかったことを教えられた。
はたして、イラク戦争の「真実」は、どのように映画で描かれるのだろう? |