1988年2月。ヤクルト・スワローズのアリゾナ・キャンプと、中日ドラゴンズのフロリダ・キャンプの取材で、十日あまり駆け足でアメリカをまわった。
ニューヨーク、グァム、ハワイに次いで、アメリカと名のつく土地へは4度目の旅。しかし、アメリカの田舎を訪れるのはこのときがはじめてで、これがわたしにとっては最初で本当の「アメリカ体験旅行」となった。
まず、ロサンジェルスからアリゾナのユマへ飛び立つはずの15人乗りの双発プロペラ機が、飛ばなかった。しかも、「delayed(遅延)」の案内が1時間以上つづいてさんざん待たされたあげくの運行中止である。理由は、エンジン・ブロークン。
小さな航空会社のバート・レイノルズによく似たカウンター係の男は、途中で立ち寄る田舎町へ行く11人の客のためには「バスを出す」といった。が、最終到着地のユマまでのチケットを持っているわたしとカメラマン、それにアラスカから避寒にやってきた老夫婦に向かっては「アイム・ソーリー」をくりかえすばかり。
言葉が満足に通じず、砂漠の真ん中にある町へたどりつくにはどうすればいいのか、途方に暮れていると、ルシル・ポールに似た老婦人が、やおらカウンターをピンクの日傘で「バシン!」と叩いた。
「去年も一昨年も同じケースがあったのよ。これがアメリカのやり方だわ(This is American Way)。だからTOYOTAに負けるのよ!」
そう叫ぶと、呆然と突っ立てるわたしのほうを振り向いて同意を求め、さらに「バシン!」と日傘でカウンターを叩いた。
すると、バート・レイノルズにかわって、カウンターの奧からロバート・レッドフォードに似た男があらわれ、てきぱきと電話を4〜5回かけたあと、「少しばかり遠回りになりますが」といいながら、他社の便のチケットを用意してくれた。
ホッとして、思わずニコリと笑うと、ルシル・ポールがわたしの耳元に口を近づけて「笑うな」という。「まだ交渉中ですよ」
そして4人の客の全権代表となったルシル・ポールの、ピンクの日傘を振りまわしてのネゴシエーションのおかげで、われわれは、ひとりあたり10ドルのディナー代を手にすることができたのだった。
この「アメリカのやり方(American Way)」は、すぐに役立った。
アリゾナでの取材を終え、フロリダのベロビーチに着くと、日本からの取材陣ラッシュのため、予約しておいたはずのホテルが満室。フロントで応対したキャサリン・ロスは、「アイム・ソーリー」をくりかえすばかり。そこで、日傘こそ振りまわさなかったが、片言の英語で懸命にホテルの予約受付の杜撰さを非難しはじめると、キャサリン・ロスは無愛想な表情で電話の受話器をとり、何度か電話をかけたあと、他のホテルの部屋を確保してくれた。それでも、タクシーで移動させるわけ? とかなんとかいいつづけると、その夜の宿泊費にディナー代10ドルをプラスしたキャッシュをわたしてくれた。
「おまえら、恐喝やっとるんやないか」
ベロビーチのキャンプ地で、この経緯を話した某野球評論家は、ちょっと呆れた顔でそんな言葉を口にしたが、われわれは「アメリカのやり方」にしたがったまでである。
もっとも、この10日あまりの旅が、うまくいってばかりだったわけではない。
ユマからフェニックスまで無限につづくかと思われるほどひろい砂漠のなかの一本道を、レンタカーで8時間近く走ったときのことである。途中に掘っ立て小屋のような店があったので、クルマを停めてひと休みしたところが、運転をしていたカメラマンが、キイをさしこんだまま外に出て、ドアをロックしてしまった。周囲は何もない。ジョン・ウェイン以外の人間なら、だれもが茫然としてしまうような砂漠が、広々と丸い地平線までつづいている。
掘っ立て小屋にいたオズの魔法使いの悪い魔女のような婆さんは、スペイン語しか話せず、片言の英語で呪いのような言葉を呟く。
「テントはあるか? 夜は焚き火を消すな。コヨーテがいる。神のご加護を」
店先にあった電話機に手を伸ばすと「ブロークン」という。
困り果ててヒッチハイクでもするか、と思って店の外に出ると、クルマの横に太めのチャールズ・ブロンソンのような男が立っていて、ドアが開いていた。
サスガにアメリカは車社会だけあって、砂漠のど真ん中とはいえ掘っ立て小屋の裏に小さなガソリンスタンドがあり、魔女の息子のチャールズ・ブロンソンは、にやにや笑いながら25ドルの請求書をひらひらと振ってみせた。
これで、ディナー代と差し引きゼロ。いや、5ドルのマイナス。やっぱりアメリカは侮れませんよね。 |