わたしが生まれ育った京都の町は、花見小路の一本西、宮川町や先斗町の東、南座の裏にあたる細い道筋で、八百屋、果物屋、肉屋、醤油屋、酒屋、足袋屋、下駄屋、草履屋、古着屋、畳屋、金物屋、時計屋、道具屋、散髪屋などが並ぶ、いわば祇園町の台所のような場所だった。今(註・2003年)では量販店の発展と、バブル崩壊の余波、それに跡継ぎ息子たちが(わたしのように)次々と町を離れたため、すっかり寂れてしまい、駐車場という名前の空き地と老人ばかりが目立つ町になってしまった。が、わたしが子供のころの商店街は、じつに活気にあふれていた。
電器屋を営んでいた我が家も客やセールスマンの出入りが頻繁で、とりわけ正月の初荷のときは、祇園祭やゑびす神社の祭り以上に賑わった。紅白の垂れ幕や花飾りをつけた満艦飾のトラックが五、六台、狭い道筋を練り歩くように近づいてきて止まると、背広のうえからはっぴを羽織り日本手拭いの鉢巻きを締めた二十人近いセールスマンたちが、大きなかけ声をかけながら初荷の品をおろす。
威勢よく動きまわる彼らに向かって、
「こんなにぎょうさん運び込まれても、売れまへんがな」
といいながらも、笑顔の親父が一升瓶でコップ酒をついでまわる。
「何いうてはりまんねん、大将。今年は東京オリンピックの年でんがな。美智子さんが結婚しやはったときみたいに、テレビがバンバン売れまっせえ」
「そないやったらよろしおすなあ」
おふくろは、前の晩に徹夜してつくった稲荷寿司を配ってまわる。その稲荷寿司を、トラックの運転席に座ったままの運転手に配ってまわるのが、わたしの仕事だった。駐車禁止の細い道では、トラックを停車状態にしておかなければならないため、運転手は席を離れることができなかったのだ。
小さな店内が初荷であふれかえったところで、親父とおふくろが店先の道路に立つと、セールスマンの人垣からいちばん威勢のいい男が進み出て、両手に日の丸の扇を広げ、大声を張りあげる。
「それでは、ナショナルショップ三友商会の大発展を御願い奉りまして、三三七拍子、ソレッ! ピッ、ピッ、ピッ!」それが済むと、万歳三唱。近所の酒屋や畳屋や骨董屋の親父さんも加わって、「商売繁盛バンザーイ! 松下幸之助バンザーイ!」
人とクルマであふれかえった狭い道は、一時通行止め。四条通の交番から警察官もやってきて交通整理にあたるなか、「バンザーイ!」の声が響く。そんな大騒ぎが、取引先の卸売店の数だけ、一日に五回も六回も繰り返された。わたしは、子供心に、一年に一度のこの初荷の日が大嫌いだった。親父は得意げだったが、わたしには恥ずかしすぎた。
「商売御繁盛で、ほんによろしおすなあ」
「今年も、きばっておくれやす」
喧噪の去ったあと、舞妓の置屋の女将さん連中から声をかけられ、親父はいかにも御満悦だったが、それらの言葉の奥に隠された京都弁ならではの嫌味ともいうべき「えらいやかましいこって」という真意を嗅ぎ分けることは、子供にも難しいことではなかった。
「阿呆なことぬかすな」
そのことを親父にいうと、すぐさま反論された。
「京都弁いうのはな、表も裏もどっちもホンマもんなんや」
子供のときは、その言葉の意味がわからなかったが、いまでは理解できる。
初荷は、別に京都だけの行事でもなければ、電器屋だけの行事でもない。しかし、東京オリンピックのあと数年で消えてしまったあの喧噪あふれる初荷は、京都の祇園町の小さな電器屋の高度経済成長時代の一時期にだけ存在した希な出来事だったに違いない。
それがなくなったからといって誰も悲しまないし、あったことを憶えている人も少なくなり、あったことすら知らない人がほとんどだろう。が、自分ひとりだけが、思い出すたびにニッコリ笑える出来事を胸に持っているというのは、なかなかに幸せなものである。 |