「酒なくて、なんの己が桜かな」という言葉があるけれど、「酒」のほうも、素晴らしい「桜」があって、はじめてその味わいが増す。
あのとき、XX君と飲んだ「酒」の味は、生涯忘れられない美酒となった。
そのときの「桜」は、カルロス・クライバーの指揮するウィーン国立歌劇場によるリヒャルト・シュトラウスの『ばらの騎士』だった。
上野の文化会館で、夢のような、奇蹟のような、美しい舞台を見終え、素晴らしい演奏を聴き終えたあと、銀座のバーで飲んだスコッチの味は忘れられない。そのあと入ったイタリア料理店でのキャンティの味わいも。
♪ティラリ〜…ティラリ〜…ティラリ〜…ティラリ〜…と、僕は、『ばらの騎士』のワルツのメロディを、何度も何度も繰り返し歌った。XX君は、カルロス・クライバーの華麗な指揮を真似ながら、僕の目の前で腕を揺らせた。旨い酒だった。
そのとき、僕の頭に浮かんだのは、在原業平の歌だった。
君や来し 我や行きけん 思ほえず
夢かうつつか 寝てか醒めてか
その歌を口にすると、XX君は、
「いいなあ……。夢かうつつか、寝てか醒めてか……。荘子、胡蝶を夢見るだな」
そういったあと、
「どこかに、原稿、書くんだろ? 今日の舞台のこと」
と、付け加えた。
「しらけるなあ」
「ごめん。ごめん。でも、それ、書いてよね。どこかに。うちじゃなくてもいいから。業平の歌と今日の舞台のこと。読みたいから。絶対に、書いてよね」
僕が軽くうなずいたあと、二人で、また、♪ティラリ〜…ティラリ〜…と、夢の世界に戻っていった。
*
僕は、XX君に、週刊誌で何度か書評を書かせてもらった。
「こんな本があるんだけど…」
といって渡された本に、ハズレは一度もなかった。
スポーツで「世紀の大逆転」と呼ばれた素晴らしい一戦の試合のルポを書いたときも、担当はXX君だった。
しかし、XX君のことを思い出すときは、そんな素晴らしい機会を何度も与えてくれたこと以上に、あの夜のことが脳裏に浮かぶ。
旨い酒。ワルツ。そして、業平の歌。
夢かうつつか 寝てか醒めてか……
ま、人生って、そんなものかもしれない…といったら、真面目なXX君は怒りだすだろうな。ごめん。わかった。がんばって原稿書くよ。
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