大学スポーツの諸問題を考える前に、まず多くの人々に向かって、スポーツに対する歴史認識が欠けている、ということを問題にするべきだろう。それは、スポーツライター等のスポーツの専門家も例外ではない。
たとえば、野球界にもサッカー界と同じく「天皇杯」が存在していることを、いったい何人の人が知っているだろうか? じつは、天皇賜杯は東京六大学野球の春秋のリーグ戦優勝校が授与されている。
日本の野球界全体の発展を考えるなら、このあり方は現在では考え直されるべき問題だが、そういう声があがらない。そればかりか、事実関係や過去の経緯が知られないまま、東京六大学が天皇杯を独占し続けている。
日本に「スポーツ」が伝播したのは、明治の文明開化の時代であり、帝国大学をはじめとする諸大学の学生たちが、その受け入れの窓口となった。そのような流れから、今日でも大学スポーツが盛んだ。が、それは、同時期に大学が窓口となって、欧米から各種の法律が伝えられたから、裁判所を大学のなかに作っているようなもので、スポーツのありようとしては歪んだものといえる。
スポーツとは、地域社会の豊かな暮らしに貢献するべきものであり、スポーツクラブは地域社会のインフラストラクチャーとして、本来整備されるべきものである。にもかかわらず、それを大学が独占するのは、社会の発展を妨げる反社会的行為ともいえる。
私立大学がスポーツ推薦で選手を集めるのは、大学の商業行為(売名宣伝行為)であり、愚の骨頂というべきもの。さらに、スポーツ推薦で入学した学生選手も、それが当人の人生にとって有意義なものとなるかどうか、大いに疑わしい。大学の宣伝として利用されているだけではないか、という疑問も持つべきだ。
大学とは本質的に学問の場であり、スポーツ心理学、スポーツ社会学、スポーツ生理学、スポーツ経営学といった研究を行うなら理解できる。が、大学が一流選手を育てなければらない理由など、どこにも存在しない。
スポーツとは、人種、民族、出自、長幼の序等々……といった属性とはまるで無関係の、平等主義・実力主義によって成立している「遊びの文化」である。が、大学の体育会は、そのような平等であるべきスポーツに先輩後輩の序列を持ち込んだ。後輩は先輩に対してボールを蹴って渡してはいけない、手で渡さなければならない、などというナンセンスなルールを作った大学サッカー部まである。
さらに大学スポーツは、スポーツに学閥を持ち込む。この悪癖は、日本のスポーツ界の正常な発展を阻害する最大の癌と言える。
そもそも大学スポーツは学生の趣味のレベルにとどまればいいのであり、地域社会のクラブを発展させるためにも大学スポーツなどなくなってしまうほうが、社会のためになるといえる。
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追記:このような主張を掲載してくれた慶應義塾大学新聞に敬意を表します。 |