新国立競技場建設の白紙撤回に続き、東京オリンピック・パラリンピックのエンブレムも、いったん決まった佐野研二郎氏のデザインが取り消され、コンペが再び行われることになった。
その経緯は多くのメディアが報道したので繰り返さない。が、私にはどうしても理解できないことがいくつかある。
まず佐野氏の創ったエンブレムや原案が、ベルギーの劇場のロゴやドイツのデザイナーの展覧会のポスターなどに酷似しているとして、盗作疑惑が騒がれたことだが、私は、似ていること自体が悪いことだとは思わない。
佐野氏がビールメーカーの賞品のデザインで、いわゆるコピペ疑惑を起こしたことは論外で、許されることではない。が、デザインで「似ている/似ていない」と騒ぐのはナンセンス。亀倉雄策氏の創った1964年東京オリンピックのマークは、太陽(日の丸)と五輪の組み合わせだが、たばこのラッキーストライクの箱のデザインにそっくり。亀倉氏自身も、それがアイデアとして頭にあったことを認めていたという。
が、亀倉氏の作品はラッキーストライクのデザインを凌駕し、太陽の祭典としてのオリンピックと、戦後復興を果たして世界の舞台に再登場する日本(日の丸)を見事に表現していた。
創作の世界――例えば音楽では、アイデア(主題=モチーフやメロディー)を拝借するのは珍しいことではない。
ロイドウェバー作曲「オペラ座の怪人」のテーマは、ドビュッシーの名曲「牧神の午後への前奏曲」のフルートの優しいメロディーを、フルオーケストラの大音量に拡大したものだし、「キャッツ」の主題歌「メモリー」はラヴェルの「ボレロ」のメロディを見事に盗んでいる。
またレナード・バーンスタインの名作「ウエスト・サイド・ストーリー」は、ワーグナーやブラームスのメロディーを巧みに取り入れ、その「パクリ」の見事さには拍手を贈りたくなる。そのなかの名曲「サムホエア」はベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第5番『皇帝』」第2楽章。冒頭のメロディーの最後の1音だけを変えたものだ。
そういえば「皇帝協奏曲」の第1楽章のメロディーは、中村八大作曲の名曲「上を向いて歩こう」の元になったとしか思えないほどソックリだ。
ザ・ピーナッツが歌ってヒットした「恋のバカンス」の作曲家宮川泰さんからは、生前その曲にヨハン・シュトラウス2世の喜歌劇「こうもり」のワルツを「パクッた」と聞かされたこともある。
ほかにもミュージカル、メリー・ポピンズの「チム・チム・チェリー」はプッチーニのオペラ「妖精」のパクり。そもそもベートーヴェンはバッハやモーツァルトのメロディーを模倣。ドレミファソラシと半音階の12の音の組み合わせの世界では「似る」「パクる」「拝借する」は当然のことなのだろう。
デザインの世界も似ているように思える。
が、そこでさらに疑問が湧くのは、盗作の疑いをかけられた佐野研二郎氏が、記者会見で「私はパクるということをしたことは一切ありません」と言い切ったことだ。
それはありえない。創作とは「無」から「有」が生まれるものではない。創作とは過去の作品を基に生まれるもので、亀倉氏や多くの作曲家たちのように、過去の作品を凌駕したものが創作・傑作と言われるのだ。だから佐野氏のデザインが過去の作品に「似て」いても問題ない。が、残念ながら、過去を凌駕する斬新さは認められない。五輪や日本や東京の新しい意味も読みとれない。
丸や四角や三角の組み合わせは、1920年代ドイツのバウハウス(造形学校)の合理主義・機能主義のスタイルでしかなく、これほど古くさいデザインが選ばれたのは組織委員会が2020年の2度目のオリンピックをどんなオリンピックにするのか、その哲学や方針を確立しないまま、1960年代高度成長期の夢をもう一度……とボンヤリ思い描いた結果のようにも思われる。
このままではコンペを何度繰り返しても同じだろう。国立競技場に続き、エンブレムもこれだけ問題になったのだから、組織委の会長が責任を取るべきだと思うのは私だけだろうか。新体制が創られて初めて、2020年へ向けて新しいスタートが切れると思うのだが…。 |