第5回 ボナール『ボクサー』
「どうしてボクサーになったのか?」という問いに対して、女流作家のジョイス・キャロル・オーツは、一人のボクサーの答えを紹介している。 「詩人にはなれない。物語を語るやり方を、知らないんだ」(『オン・ボクシング』中央公論社・刊より)
これはたぶん、カッコ良すぎる回答と言うべきだろう。しかしボクサーの誰もが、自らの身体を用いて物語を紡いでいることは事実である。
印象派と呼ぶには少々病的で現代的と言えるボナールは、60歳を過ぎて描いた自画像に「ボクサー」と名付けた。その理由を私は知らない。が、わかるような気がする。
ボクサーは常に鏡を見る。それは自分のフォームが正しいか否かをチェックするためだが、鏡の中の自分を見て何も思わないボクサーはいない。
俺は誰だ? 何をしてる? なぜ闘う? 誰と闘う? 何と闘う? 強くなりたいか? 強くなりたい! なぜ強くなりたい? 勝ちたいか? 勝ちたい! なぜ勝ちたい? 何に勝ちたい? なぜボクサーになった?
……ボクサーは敵と闘う前に、まず鏡の中の自分と相対し、自分に向かって問いかけ、鏡の中の自分を相手に格闘する。
老境に差し掛かったボナールも拳を握り、痩せ衰え始めて肋骨の浮き出た鏡の中の自分と格闘した。ボクサーとは、すべての「格闘する人間」の代名詞。ボナールもボクサーとして、格闘する人間の物語を語ったのだ。
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第6回 モネ『アルジャントレイユのレガッタ』
モネと言えば「睡蓮」。ニューヨークのMOMAで(オルセーでなかったのは残念だが)幅10m以上の作品を見たときは、興奮の余り30分以上もその場に立ち尽くした。
そのことを画家の日比野克彦氏に話すと「展示された本物の絵はライヴだからねえ」という言葉が返ってきた。なるほど。モネは、そのカンバス、その作品の前に立ち、絵筆を握り、絵の具を塗りつけていたのだ。
とりわけモネ(やゴッホなど印象派の画家)は、筆遣いが独特なだけに、「ライヴ感」がより生々しく、リアルに伝わってくる。
画布の前に立って絵筆をふるう画家が現れる。と同時に画布に描かれた睡蓮もゆらゆらと動き出す。
もちろん競技会(レガッタ)に出場するヨットも動き出す。セーヌ川の川面に映し出されたヨットや人の姿も河畔の小屋も、すべてが揺れる。
明治の文明開化でスポーツが欧米から伝わったとき、最初の訳語は「釣り」だった。次に「乗馬」。釣りや乗馬を楽しんでる欧米人に「何をしてる?」と訊くと、「プレイング・スポーツ」という答え。その訳語だろう。のちにスポーツは「遊戯」とも訳された。「運動」「体育」といった訳語が軍国主義とともに一般化する前、スポーツの原義に近い日本語訳だった。
モネの描くレガッタはスポーツそのもの。ゆらゆらと長閑に楽しく豊かな非日常の時空間がライヴで眼前に動き現れる。 |