掲載日2004-01-12 |
この原稿は、筑摩書房が出版している小中学校の教諭向け機関誌『国語通信』2000年夏号に寄稿したものです。 |
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内面より外面 |
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学校で、文字を学んだ記憶はある。原稿用紙の使い方も、確かに学んだ。漱石や鴎外などの素晴らしい文章を読んだ記憶もある。詩や俳句や短歌も、書かされた。が、文字と文章を使って、何かを表現する方法を学んだ記憶は、ない。
文字と文章をどのように駆使すれば、いい文章が書けるのか。自分の体験や思いを、うまく表現することができるのか。そのような文章術は、学ばなかったように思う。
その方法を学んだのは、スポーツ・ライターという職業に就いてからのことだった。もちろん、独学である。
たとえば、目の前を短距離走のランナーが走る。百メートルを十秒前後、秒速十メートル、時速三六キロで駆け抜けるその速さと迫力は、圧倒的である。肩の筋肉が盛りあがり、太い足は前後に大きく開き、力強くトラックを蹴る。八人のランナーが一斉にスタートする様を間近で見ると、大地の振動まで感じる。彼らの息づかいは、蒸気機関車が時折激しく吐き出す水蒸気のようでもある。
そんな迫力は、誰もが感じることだ。が、その迫力を文字でどのように表現すればいいのか、わたしは、スポーツライターという仕事をはじめた当初、おおいに戸惑った。そして、文章の基礎というべきものを、何も持ち合わせていないことに気づいた。
絵を描こうとする人が、最初から油絵の筆を持つことはないだろう。ピアノを弾こうとする人が、最初にベートーヴェンのピアノ・コンチェルトを弾くのは無理なことだ。まず最初は、デッサンを練習し、運指(指使い)の練習を繰り返さなければならないはずだ。
石膏の胸像を描きたいと思って絵を描こうとする人はいないだろう。ドレミファソラシドを弾きたいと思ってピアノをはじめる人もいないはずだ。が、最初には、誰もが、基礎を身につけなければならないのだ。風景画を描くにしろ、静物画や人物画を描くにしろ、また、いずれはモーツァルトやチャイコフスキーを弾きたいと思っているにしろ、それが必要なのだ。ピカソもショパンも、そうしたはずだ。なのに、ピカソやショパンよりもはるかに才能で劣る我々が、それをしないでいいわけがない。文章を書くことだけが、例外であるはずがない。
そのことに気づいたわたしは、まず、目の前で見たスポーツを、写真のように、TV中継のように、描写してみることにした。野球の試合で、バッターが打席に入る。そのことだけを、目で見たままに描いてみることにしたのだ。
バッターは、バットを肩にかついでいるのか、ズルズルと引きずっているのか。足取りは力強く自信にあふれているのか、それとも、少しばかり頼りなげに見えるのか。打席に入ったバッターは、どのような仕種で足下の土をならすのか。どのように、何度、素振りするのか。そのバッターの様子を、ピッチャーやキャッチャーは、どのように観察しているのか。あるいは、無視しているのか。
それらをすべて文章に書いてみる。すると、それまであまり意識しなかったことに気がついた。
ひとつは、言葉とは山ほど数多く存在するものである、ということである。
バッターが打席に向かおうとするとき、それまでネクストバッターズサークルで素振りをしていたマスコットバットを、地面に置く。いや、捨てる、といったほうがいいかもしれない。いや、手放す、投げ捨てる、放る、放り出す、放り投げる・・・。基本的な動作を示す動詞だけでも、山ほどある。それに形容詞をつけるなら、組み合わせは数え切れない。丁寧に、無造作に、ぞんざいに、ポーンと、ポイと・・・。
見たままの出来事を、正確に、感想や感情を抜きに書き表そうとすればするほど、どの言葉が最も的確なのか、と思い悩む。そして、言葉の数の多さに改めて驚いた、というわけである。
もうひとつ気づいたのは、文章デッサンの練習をしようと思った結果、対象物をより細かく観察するようになったことである。それまで、打席に向かうバッターの態度など、あまり細かく見ることはなかった。せいぜい、引き締まった顔つきか、不適な笑みを浮かべているか、という程度にしか、見つめていなかった。ところが、肩をまわしたり、腕を振ったりする動作や、足を踏み出すときの歩幅の大きさといった一挙手一投足が、なかなかに面白いことがわかった。
滑り止めのためのロージンバッグやスプレーを、ネクストバッターズサークルに綺麗に並べてから打席に向かう選手もいれば、それらを放り投げて打席に歩き出す選手もいる。バットを握りしめた両手を、高く上に伸ばして気合いを入れる選手もいれば、ガッツポーズのように胸元でバットを強く握りしめてから打席に向かう選手もいる。それらの仕種が、打席に向かうバッターの感情を見事に表現しているのだ。
ホームランを打った瞬間の迫力あるスイングや、サヨナラ・ヒットを打ったあとの満面に笑みを浮かべたインタヴューよりも、誰もが見落としてしまいそうな何気ない仕種のほうに、スポーツマンたちの心理が表れているのだ。まさに、真理は細部に宿っている、ということに気づかされたのである。
文章にかぎらず、絵や音楽もふくめて、「表現」とは、すべて、外面的なものである。目で見え、耳で聞こえ、手で触れ、鼻で嗅ぎ、口で味わうことのできるものでなければ、「表現」とはいえない。
また、「素晴らしい表現」とは、「表現技術」が優れているもののことである。どんなに心の美しい人でも、技術がなければ、美しい絵は描けない。美しい音楽は奏でられない。もちろん、美しい文章を書くこともできない。
ところが、文章や文字、すなわち、言葉というものは、日常的に誰もが使っているものだから、誰もが簡単に使いこなせるもの、と考えてしまっているように思える。そこで、文章を書いたり、言葉で表現する場合、外面的な技術が等閑にされ、内面的な感情ばかりが優先される。スポーツでも映画でも、また自分の体験でも、それを、文章や言葉で表す場合は、感想や感動が重視される。その結果、外面的な技術、つまり「表現」が疎かになる。
最近の子供たちに、スポーツや映画を見たあと感想を聞くと、「面白かった」「すごかった」「最高だった」といった言葉しか返ってこないことが多い。どこが、どのようだったので、こんなふうに面白かった、という具体的描写が欠ける。それは、あまりにも、感性や心といった内面を重視しすぎた結果ともいえるのではないだろうか。
文は人なり、という言葉がある。それは、文章はその人の人格を表す、という意味ではなく、文章を磨けば人も磨かれる、という意味である、と、わたしは考えている。
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