1818年。フランス革命とナポレオン戦争の余韻が消えないヨーロッパで、弱冠21歳の女性作家メアリー・シェエリーは、小説『フランケンシュタイン』を発表した。それは近代社会の《パンドラの箱》を開ける行為であり、現代社会にまで大きな影響をもたらす出来事となった。
フランケンシュタイン博士は、最新科学を駆使して《人造人間》を産み出した。神に代わって創造主となる営為に手をつけたのだ。その結果、神も持たず、親も持たない《人造人間》は、必然的に《怪物》と化し、博士の手に負えなくなる。
その後も近代社会は『ジーキル博士とハイド氏』『透明人間』『ドラキュラ』と、姿形を変え、新たな意味を伴う《怪物》たちを世に送り出し、様々に問題を提起する。
本当に怖いのは《怪物》なのか?
《怪物》に変身する紳士なのか?
誰の目にも見えずに不安を煽る《怪物》は、透明になって何がしたかったのか? 血を吸うことによって増殖する吸血鬼は、普通の人も吸血鬼に変える可能性(危険性?)が…。
本書の著者はゴシック小説を読み解く面白さを提示すると同時に、《怪物》たちの実態を考察し、ついに「チャタレイ卿」の出現へと読者を導く。
D・H・ロレンスの小説『チャタレイ夫人の恋人』のチャタレイ卿は、第一次世界大戦で下半身を負傷。男性の機能を失い、車椅子生活を余儀なくされる。そして誰の子供でもいいから《とにかく、人なみの頭をもった男の子をわれに与えよ》と願う。
つまり《男が男を作るという『フランケンシュタイン』以来の考えがそこに》出現する。しかも夫人は、衰退する石炭産業を支えた《森》に暮らす《森番の男》と結ばれる。《怪物》は時代の変わり目に現れるものなのか…。
『フランケンシュタイン以来の考え』は、一方では20世紀のロボットと、SF作家アシモフの「ロボット制御」の考え方につながり、他方では映画監督スピルバーグの辿り着いた「テロリストと闘う現代社会」につながる。
映画『ジョーズ』でホホジロザメとの闘いを描き、『未知との遭遇』や『宇宙戦争』で宇宙人や細菌との闘いを描き、『ジュラシック・パーク』で恐竜を現代に甦らせ、『A.I.』で家族のなかに人造人間を持ち込み、現代社会のなかに現れる様々な《怪物》を描いたスピルバーグは、『ミュンヘン』でアラブ系テロリストに復讐を企てるイスラエル諜報機関の暗殺者を描いた。
そして《テロリストという怪物と戦っているはずなのに、自分たちのほうが怪物に思えてくる》暗殺者は《人間と怪物の境界線がゆれていく》のを無意識のうちに感じ、組織を離れる。
衝撃的な映画の結末以上に、フランケンシュタインに始る本書の展開が、そこまで行き着いたことに、驚異とともに快哉を叫びたくなる。原水爆を産み出した社会は、サリン事件、9・11、連続通り魔…を起こす《怪物》をも産み出す。そんな現代社会の構造を、鮮やかに説き明かす見事な一冊である。
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