競技として行われるスポーツだけでなく、都市の大改造もhくみ、戦争や災害からの復興まで唱えられ、政治も動き、経済にも影響を与え、しかし人々の生活に直結した「何か」があるかと改めて考え直してみれば、何も思いつかず、ただ4年に1度の祭りと喧噪の2週間が過ぎ去るだけか……?
1年後に迫ったオリンピックとはいったい「何」なのか? それを考え直すためには、まず過去を振り返るべきだろう。
カルロス矢吹著『アフター1964東京オリンピック』(サイゾー・19年)は64年の東京五輪に関わった12人にインタヴューした一冊。
陸上10種競技で出場したあとプロ野球史上初の野球経験のないコーチとして巨人に入団し、トレーニングコーチの重要性を広めた鈴木章介。
在日の柔道家として天理大学に学び、韓国代表として中量級銅メダルを獲得。英語で交渉できる人材がいなかった(今もいない?)日本の柔道界を嘆く金義泰。
事故で脊髄を損傷。寝たきり状態から車椅子でパラリンピックのバスケットボールなどに出場。障碍者は街へ出ることが大事だとわかったという近藤英夫……等々、オリンピックの内部からの発言は、どれも傾聴に値する。
メルボルン、ローマ、東京と女子飛板飛込みで3大会連続五輪に出場した馬淵かの子は、「東京五輪は失敗だった」と断言する。
「東京五輪まではお金がたくさん出て海外遠征もたくさんさせてくれたのに終わった途端にカターンとなくなって」「東京五輪さえよければという考えで(略)強化費を使ったんでしょうね」
石坂友司/松井秀樹編著『一九六四年東京オリンピックは何を生んだのか』(青弓社・18年)は日本のスポーツ界の変化と、都市(東京)と社会の変化という視点から64年五輪を捉え直す。
女子バレーの東洋の魔女が大会後の「ママさんバレー」の流行につながったが、両者ともに「ジェンダーを打破する局面と固定的な女性の生き方を踏襲する局面があった」ことを指摘。大松博文監督の「根性論」が高度成長時代の社会に「愛国的企業戦士」の育成へと絡め取られる様子などを指摘する。
また64年五輪で「東京の空が青かった」と言う人の多い原因として、施設の多くが旧皇族華族の土地や軍用地などの接収から生まれたことを指摘。「レガシーと呼べるものがもしあるとするならば、それは、権力的基盤に基づきながら、むしろ自由で開放的な空間を人々へと提供していく逆説」にあった、と興味深い結論を導いている。
さらに島田哲夫『スポーツ哲学入門オリンピック・レガシーのために』(論創社・18年)は、五輪やその遺産が語られるときに常に忘れられてしまう「スポーツとは何か」という根源的命題を問い直す。
そして来年に迫った東京五輪を「開催すべき最高善の大会」と捉えず、西洋のスポーツの歴史、近代スポーツの成り立ち、現代スポーツの状況のすべてを検討する。そのラジカル(根源的で過激)な思考の末には、「そもそもスポーツは非日常的なゲーム、フィクションであり、自分なりの関心を持ち、自分なりのスタイル(時間、関わり方、関わり具合)で自由に関わり(関わらないという選択も自由にできる)、誰に強制されるでもなく自由に」関わるべきものという極めてナチュラルな結論に達する。
「オリンピック大会のような大げさなイベントに無理矢理関わらせられるよりも(略)自分にとって最も関心のあるスポーツ、自分の生活の最も密着しているスポーツに自由に関わることが、はるかに「健康的」である」とも……。
その意味では、今世界の舞台で大活躍しているアスリートこそ「自由に健康的」にスポーツと関わっていると言えるかもしれない。
池沢優子『世界を獲るノート アスリートのインテリエンス』(カンゼン・19年)には卓球の伊藤美誠や柔道の朝比奈沙羅のほか、多くのコーチへのインタビューするなかで、現在日本で最先端を歩むアスリートたちが、諸問題の言語化や可視化を通して高いレベルのスポーツをプレイしていることがわかる。
64年東京五輪の翌年、「体育の日」という「スポーツ」を「誤訳」した国民の祝日が生まれた。来年からその日は「スポーツの日」に変わる。言葉の変化だけでなく、知育も徳育も、そして体育も含むスポーツ文化が生まれることこそ2020東京大会の遺産と言えるかもしれない。 |