「ミレニアム」も「Y2K」も、いまとなっては、空騒ぎ・・・。とはいえ、わたし個人にとっては、「2000年の1月」という数字だけでも記憶に残りやすい年月が、単なる空騒ぎではなく今後一生忘れることのできない中味のある思い出として残ることになった。
というのは、今年の1月9日、東京オペラシティのタケミツホールで、ジャズ・ピアニストの山下洋輔作曲による『ピアノ・コンチェルト第一番』が初演され、その演奏会を聴くことができたからである。
それは素晴らしい作品だった。そして見事な演奏会だった。
フリー・ジャズの名手として(わかりやすくいえばメチャクチャなピアノを弾くことで)有名な山下洋輔が、ピアノ協奏曲という「形ある」音楽を作曲し、演奏する――というだけでも驚愕モノの出来事といえる。が、その中味はさらに驚嘆すべきもので、きわめて現代性に富んだうえ、音楽の喜びにあふれ、ベートーヴェンやチャイコフスキー、バルトークやプロコフィエフの作品と肩を並べるほどの大傑作だった。
つまり、現代という不安に満ちた複雑な社会、未来の見えない狂乱の時代が、音楽的に表現されながらも、音楽をする喜び、すなわち人生を生きる喜びにあふれた作品で、演奏会に訪れた聴衆は、誰もが演奏の終了とともに喜色満面の笑みを浮かべ、ホールは割れんばかりの大拍手に包まれたのだった。
ジャズとクラシックの融合――などという陳腐なモノではない。締太鼓(しめだいこ=和太鼓)まで加えた四楽章の作品は〈アレグロ―アダージョ―スケルツォ―プレスト〉という形式を踏んでいるように見えながら、じつはそんな形式を微塵も感じさせない即興性(インプロヴィゼーション)に富み、わたし(をふくめた聴衆)は、ただただピアノの魅力、オーケストラの魅力、音楽の魅力に酔いしれた。
この作品は、ひょっとして、いや、断じて、初演されたタケミツホールにその名を残した作曲者の作品群と同様、後世に残る名作として何度も何度も繰り返し演奏されるに違いない。
それと、もうひとつ。このコンサートには、付記すべきことがあった。それは、東京フィルハーモニー交響楽団を指揮する予定でいた佐渡裕が、病気のために指揮台に立てなくなり、かわって彼のアシスタントを務めている金聖響という若者がタクトをとったことだ。
ジャンピング・コンダクター佐渡裕のダイナミックな指揮と山下洋輔のエルボウ・スマッシュ(肘撃ちピアノ)の一騎打ちが見られなかった(聴けなかった)のは残念だった。が、東京フィルの金管を存分に吠えさせ、弦をたっぷりと奏でさせた金聖響という若者の指揮ぶりは、特筆ものの見事さだった。
というわけで、わたしにとってのミレニアムの幕開けは、大傑作の誕生の場に同席できたことと、今後注目すべき初々しい若手指揮者のデヴューに立ち会えた、という二重の感激に満たされたのである。
ここで話は一転する。
このコンサートの翌日から、わたしは北海道のTV局の仕事でヨーロッパへ渡った。それは、コンサドーレ札幌の岡田武史監督(前日本代表監督)と一緒にドイツとイタリアのサッカー事情を取材するためで、ハンブルク、トリノ、ミラノの各都市で地元のスポーツ・クラブやサッカー・チームを見て回った。
そんなある日、トリノを本拠地とするセリエAの名門チーム「ユベントス」の練習を岡田監督とともに見ていたときのことだった。
ミッド・フィルダーの選手から前方に出されたボールをシュートに結びつける練習が、目の前で何度も何度も繰り返されたとき、わたしの頭のなかにひとつの疑問が浮かんだ。
――サッカーには「形」というものが、あるのですか?
「あるといえば、ありますよ。攻撃の形とか防御の形が」
岡田監督は、そう答えた。
「でも、形にこだわるとダメなんです。形をきちんと作って攻めさせたり守らせたりする監督の率いるチームは、ある程度は成績が伸びるけど、一定以上には成長しなくなる。そういうチームは形にはまれば強いけど、サッカーは瞬間瞬間で状況が変わりますからね。形にとらわれすぎて対応できなくなるんです」
――だったら、選手を指導するときは、いったん形を教えてから、それを破壊させるんですか? それとも、最初から形など無視させるんですか?
「それは・・・その中間かな。攻撃とか防御の一定の形は頭に入れさせますけど、つねに、もっとほかの方法もある、という意識を持たせます。練習では、瞬間瞬間の動きが最善の選択だったかどうかを評価し、それが最善の選択でなかったら、別の動きがあったことを教えます。けど、それを形として憶えさせたり、残したりはしません。そのときの最善は、そのときだけのことであって、少しでも局面が変われば、最善の選択もかわってきますからね」
――サッカーでゴールを奪うというのは、雲をつかむような話なんですね。
わたしが冗談半分にそういうと、岡田監督は苦笑いしたあと、
「サッカーはジャズですから」
といった。
「ジャズ・ミュージシャンはそれをやってるじゃない・・・」
一定の形(音楽の進行)はあるけれど、瞬間瞬間に即興で最善の音を選択して演奏している・・・という意味だと、わたしは納得した。
じつは岡田監督は大のジャズ・ファンで、山下洋輔のコンサートにも行く予定でいたのだが、イタリア・カップの試合を見るためにわたしよりも一足先にイタリア入りし、コンサートのほうをキャンセルせざるを得なかった。
そんなジャズ・ファンの岡田監督の一言で、わたしの疑問が氷解した。といっても、サッカーのことではない。山下洋輔の「クラシック演奏」について、以前から抱いていた「謎」が解けた気になったのだ。
山下洋輔には、ショパンの『夜想曲』やガーシュインの『ラプソディ・イン・ブルー』、それに『乙女の祈り』などのクラシックの名曲を演奏したCDがある。どれも美しい音色の素晴らしい演奏で、しかも肘撃ちまで交えた楽譜にない即興をふくむ「山下節」ともいうべき面白い演奏なのだが、わたしには、なぜ、そのような弾き方をしなければならないのか、ということが、はっきりとはわからなかった。
そんな疑問は抱かなくてもいい、ただ音楽が素晴らしければいいとも思ったし、それが山下洋輔という音楽家の個性であり感性なんだ、という回答で十分だとも思っていたのだが、それでも、なぜ、こうまで楽譜から離れて、形を崩して・・・という思いが拭いきれなかった。
しかし、岡田監督の「サッカーはジャズ」という言葉によって、その疑問が完全に氷解した。
山下洋輔はショパンやガーシュイン(の楽譜)を相手にサッカーをしているのだ。ショパンの攻撃(楽譜)に対してディフェンスを固めたり、攻撃をしたり、楽譜に秘められた即興性までも見越したうえで反撃に転じてボールをサイドへ送ったり、センタリングからシュートをしたり・・・。その結果、「ゴオオオオル!」と叫ぶのは、わたしたち聴衆だ(残念ながら試合に敗れて涙するときもあるだろうが)。
そんなふうに考えながら山下洋輔のCDを聴き直すと、さらに面白く聴けた。ご本人が、どのようにクラシック音楽というものを意識されておられるかどうかは知らない。が、今後は、ショパンやラヴェルにとどまらず、史上最強の強敵であるモーツァルトやベートーヴェンにも是非とも挑戦していただきたいものである。
*****
山下洋輔の『ピアノ・コンチェルト第一番』は、その後、大阪フェスティバルホールで再演され(佐渡裕指揮京都市交響楽団)、2004年11月にはイタリアのトリノでも演奏され(佐渡裕指揮イタリアRIA交響楽団)、大成功したそうです(2004年11月13日付のナンヤラカンヤラのコーナーを読んでください) |