ワーグナーが20年以上の歳月を費やして完成させた超大作楽劇『ニーベルングの指環』は、主要なキャラクターだけでも34人もの人物や神々や動物が登場する。つまり『指環』全曲を四夜にわたって上演するためには、最低限34人の「ワーグナー歌手」(フルオーケストラの奏でる壮大な音響に負けずに歌うことのできる歌手)が必要になるわけだ。
が、芸術監督のゲルギエフはこういった。
「我々の歌劇場には、同じ登場人物でも四夜とも歌手を変え、さらにトリプル・キャストを組む事のできるメンバーが揃っています」
これは驚嘆すべきことである。
三夜にわたって登場する神々の主神ヴォータンや、その娘ブリュンヒルデを歌える主役級の歌手が、各々九人ずつ存在し、英雄ジークフリートを歌えるテノールが6人も存在するというのである。
それが、ゲルギエフの率いるマリンスキー劇場の底力であり、その頂点としての最高の舞台が日本で実現しようとしているのだが、いったいどのようにして、それほど優秀な歌手を集めることができたのか?
たとえばサンクトペテルブルクでの『指環』全曲公演で、『ワルキューレ』のジークリンデを歌い、圧倒的な迫力にあふれる歌声と繊細な表現を兼ね備えた見事な歌唱で聴衆を驚嘆させたソプラノのムラダ・フドレイは、次のように語った。
「歌手になりたいのなら喉を酷使しないほうがいい、という音楽家だった両親の薦めもあって、歌の勉強は音楽院に通わず、個人教授を受けただけでした」そして、さらに、「マリンスキー劇場のオーディションがあるというので参加して、ゲルギエフさんの前で歌ったら楽譜を渡されて、1年後までにマスターするようにいわれたのです。それが『サロメ』でした」というのだ。
なんとも大胆なアメリカン・ドリームにも優るロシアン・ドリームというべきだろう。
そうして若き無名の(音楽院も卒業していない)ソプラノ歌手は、ゲルギエフの眼力(と聴力?)によって見出され、スター歌手への道の第一歩を踏み出したという。しかも、デビューが『サロメ』である。
「もちろん私自身、驚きました。でも、ゲルギエフさんにいわれたことですから、彼の言葉を信じて、自分を信じて挑戦しました」
日本でも上演された新演出の『ボリス・ゴドゥノフ』のタイトル・ロールに抜擢されたエウゲニー・ニキーチンも、当時は29歳のまったく無名のバス歌手だった。その彼も『指環』ではヴォータン(さすらい人)を歌い、堂々たる演技と歌唱で絶賛されている。
そしてマリンスキー劇場のオーディションには、いまも全ロシアから、いや世界中から、若手歌手が蝟集するようになったという。
それは、ゲルギエフの眼力のみならず、彼の胆力(すなわち肝っ玉の大きさ)によるものというべきだろう。大胆きわまりない歌手の抜擢。なるほどそれは、彼のタクトから引き出される驚きに満ちた音楽とまったく同質であり、無限の可能性を信じた指揮者だけに可能な方法論といえるに違いない。
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