少々宣伝がましくなって申し訳ないが、神奈川フィルハーモニーの常任指揮者に就任して大活躍中の金聖響さんと共著で、『ロマン派の交響曲〜「未完成」から「悲愴」まで』(講談社現代新書)という本を出版した。
金聖響さんが語り手、私が聞き手となって、シューベルトやベルリオーズからブラームスやチャイコフスキーまで、「ロマン派」と呼ばれている作曲家の交響曲について、楽しく、面白く、わかりやすく解説してもらったもので、一昨年に出版して好評だった『ベートーヴェンの交響曲』の続編というわけである。
私がこのような音楽の解説書を出版することについて、なかには、「スポーツ以外にも趣味が……」と少しばかり驚く人もいるようだが、私にとっては、スポーツを書くのも、クラシック音楽を書くのも、まったく同じ意識である。
考えてみれば、スポーツは明治10年前後の文明開化のときに欧米から輸入された西洋生まれの文化。それが日本では体育と翻訳されて学校を中心に発展した。その過程には、町のクラブを中心に発展し、学校教育(体育)とは一線を画された欧米のスポーツ文化と大きな違いがある。
クラシック音楽の場合もよく似ている。明治12年に日本の近代化政策の一環として「音楽取調掛」が生まれ、明治20年には東京音楽学校(のちの東京芸大音楽学部)を頂点とする音楽学校教育が整えられ、スポーツと同様、日本の西洋音楽も「教育」として発展した。
その結果、日本のスポーツもクラシック音楽も、どこか教育的な堅苦しさが付きまとっている。
たとえばイチローのバッティングについて、野球評論家はやたらと難しく話す。イチローのバット・コントロールや手首の使い方や重心移動の巧さ、動体視力の優れた点や集中力を持続させる上手さ、さらに日頃の訓練のストイックさ…など。
しかし多くの野球ファンは、それらの解説とはほとんど関係なく、イチローの鮮やかなヒットに驚嘆し、歓声をあげ、心からの拍手を送る。野球評論家の解説は、評論家が評価されるだけで(あるいは聞き流されるだけで)イチローのバッティングの素晴らしさや野球というゲームの面白さとは関係なく存在していることが多い。
クラシック音楽も同じようなもので、音楽評論家は指揮者の「解釈」やオーケストラの「技量」について、あのテンポはどうのこうの…、ヴァイオリンの弓の使い方がどうのこうの…と細かく語る。が、音楽を聴いて感動し、拍手を送っている聴衆と、評論家の「解説」とは、ほとんど無関係なことが多い。
さらに、どっちの評論家にも共通するのが、スポーツや音楽そのものの素晴らしさについて、なぜか何も語ってくれないことだ。
野球やサッカーは面白いのが当然で、ベートーヴェンやシューベルト、ブラームスやチャイコフスキーの音楽が素晴らしいのも当然で、どこが面白いのか、どんなふうに素晴らしいのか……ということは、ほとんど語ってもらえない。
私(と金聖響さん)の本は「教育的」ではないかもしれないが、面白く、楽しく、素敵なものとして音楽(やスポーツ)を語っている。私は、ただそのことだけを伝えたいのだ。 |