わたしの友人に、蓄音機とSPレコードを専門に扱っている骨董屋の主人がいる(註・本HPに宣伝を出してくださっている『梅屋』の御主人のことです)。そう書くと、どんな爺さんかと思う読者がいるかもしれないが、まだ三十代前半の独身の男である。
彼と出会い、古いSPレコードを蓄音機で聴かされて以来、わたしは、その素晴らしい魅力にとりつかれてしまった。
蓄音機とは、文字通り「音」を「蓄」える「機」械である(英語の「グラモフォン」gramophoneも、まったく同じ意味である)。
SPレコードは、基本的に電気的な操作が加えられていない。ナマの音(空気の振動)がマイクロフォンの紙の振動となり、その振動が針に伝えられ、レコードに溝として刻み込まれる。再生するときは、その逆をたどり、溝に刻まれた振動を針がなぞって、針の振動がスピーカーの紙をふるわせ、空気を揺らす。
だからナマの空気の振動を聴くことができる。つまりナマの演奏が再現されるのである。
じっさい、はじめて蓄音機でマリア・カラスの歌声を聞いたときは、腰を抜かしそうになるほど仰天した。あまりにも生々しい歌声が再現され、目の前にマリア・カラスがすっくと立ち、歌をうたっているように思えたのである。
パブロ・カザルスの弾くバッハの「無伴奏チェロ・ソナタ」を聴いたときは、大きな蓄音機の箱のなかで、カザルスが実際にチェロを弾いているとしか思えなかった。フリッツ・クライスラーによる自作のヴァイオリン小品の演奏も、生演奏と寸分違わぬ雰囲気で、周囲の空気が美しく揺れ動いた。
SPレコードに「蓄えられた」名演奏は、CDとしても数多く復刻されている。が、それらは、シャアアアーッという針音が耳障りでならない。しかし、じっさいにSPを聴くときは、蓄音機の蓋を閉めれば針音はほとんど気にならない。
さすがに一本の溝だけでの「蓄音」には量的に限界があるようで、オーケストラやピアノ演奏の再現は音が濁る場合が多く、CD(や、かつてのLP)の音のクリヤーさにはかなわない。が、人間の声や弦楽器の独奏は、どれだけハイテクの粋を結集したデジタル再生機よりも、ロウテクのSPレコード蓄音機のほうが上のように思える。
CDは音(空気の振動)を電気信号に変換するため、音量や音質を自在に変換することができるし、コンパクトで持ち運びもできる。
蓄音機にはヴォリュームがなく、スピーカーの前の扉の開け閉めによって音量を調節する。また、5分前後の一回の演奏のたびにゼンマイのネジを巻き直し、針をつけ直さなければならない。
手軽で便利という点ではCDがはるかに有利である。が、どっちがリアルな音(空気の振動)に近いかというと、それは断然、蓄音機のほうなのである。
再生の課程で電気変換を行うCDは、いってみれば、よりホンモノに似せたイミテーションであり、ダイヤモンドに似せた人造ダイヤというべきだろう。
ただし、誤解しないでいただきたい。わたしはイミテーションが悪いといってるのではない。イミテーションのなかには、ホンモノの宝石よりもよほど美しいものもある。そもそも何がホンモノで何がニセモノか、などということは、きちんと決められる問題ではないのである。
オーソン・ウエルズの創った映画に、『フェイク(偽物)』という大傑作がある。主人公は、絵筆を持つとピカソでもゴーギャンでもセザンヌでも、たちどころに描いてしまう実在の贋作画家。彼は、オーソン・ウエルズの目の前で、マチスやモジリアニの「新作」をあっという間に仕上げる。その作品は、ルーヴルにもメトロポリタンにも、いまも「本物」として展示されているという。
そんな贋作画家のもとへ、彼の評伝を執筆したいという作家が出現する。その男は、謎の大富豪ハワード・ヒューズの伝記を書き、ベストセラー作家となった。が、晩年にあらゆる人物との面会を拒否したヒューズに対するインタビューの真贋をめぐって、物議を醸した。
そんな贋作画家と贋作作家の出会いをオーソン・ウエルズがフィルムに収める。改めていうまでもなく、ウエルズは、かつて「火星人襲来」という「大ウソ」のラジオ番組をでっちあげ、全米をパニックに陥れた人物である。
映画は、何がホントで何がウソなのか、まったくワケがわからないまま見る者の頭のなかを大混乱に陥れる。
しかし、この映画のいいたいことは、簡単で単純なことでしかない。価値観とは個々人の好みの問題であり、本物と偽物に具体的な差異はない――という、ただそれだけのことである。
わたしは、マーラーの壮大な『千人の交響曲』でも、手軽に楽しむことのできるCDが大好きである。が、カラスやカザルスの微妙な息づかいをそのまま味わうことのできるSPも素晴らしいと思っている。
「どっちがホンモノ?」と問われると、どっちもホンモノではない、と答えるほかない。素晴らしい演奏を聴いた直後なら、CDであれSPであれ、どっちもホンモノというだろう。
シンフォニー・ホールやオペラ座で生演奏を聴いたときでも、ホンモノだと思うときもあれば、ニセモノだと思うときもある。ナマは再生よりもホンモノ、ともいえない。
最近、往年の大作曲家で大ピアニストであるセルゲイ・ラフマニノフ(1873〜1943)の「実演復刻CD」を聴いた。SPの復刻ではなく、ミュージック・ロール(ピアノを弾くと空気圧で分厚い紙の巻物に穴があき、その紙で自動ピアノの演奏が楽しめる)を復刻させたものだという。
といっても、単に自動ピアノの演奏を録音したものではなく、《NASAのジェット推進研究所で開発された位相固定ループの技術を応用し、データを分析、オリジナルと同様のマスターロール復元し(略)それを空気圧による再生ピアノをインプットしたコンピュータでシミュレートされ(略)、微妙なタッチの加減やペダリング等すべてオリジナル演奏と同様に復元されます》というものらしい。はっきりいって解説を呼んでも意味はわからない(わたしには理解できない)。
しかし、演奏は、素晴らしく情感豊か(ロマンチック)で、楽しい。曲目も、『くまんばちの飛行』『メヌエット(アルルの女)』『愛の喜び』、それにラフマニノフ自身の小品などの愛らしいものばかりで、ソビエト社会主義革命ののちにアメリカへ亡命したとき、演奏会でアメリカの聴衆を虜(とりこ)にした『アメリカ国歌(星条旗よ永遠なれ)』まで入っている。
なるほど、ハリウッド恋愛映画のテーマ曲に用いられるような美しいメロディのピアノ協奏曲を作曲した人物ならではの選曲であり、演奏といえる。
しかも、NASAの技術のおかげか、雑音がまったくなく、古臭い陰にこもった音色でもなく、これがラフマニノフの演奏だといわれなければ誰も気づかないほど鮮明な再生音になっている(「ブーニンの演奏だ」といわたら、「ブーニンも最近は音が豊かに柔らかくなったんだ」と思って疑わないだろう)。
ところで、これは本当にホンモノのラフマニノフの演奏といえるのだろうか?――などというと、レコード会社の人や録音技師からお叱りを受けるかもしれないが、「100パーセント現代の再生音」として蘇った過去の演奏を聴くと、逆に違和感を感じないわけにはいかない。
いや、過去の世界がセピア色の映像や雑音だらけの音色だと思っているのは、単なる錯覚にすぎない。セピア色に変色しない江戸時代や室町時代、さらに飛鳥時代の写真が残っていたなら、きっとその色彩の豊かさに仰天することだろう。
過去の音の豊かさはSP蓄音機というロウテクを聴いても理解できる。
「違和感」にとまどったり、嘆いたりする必要はない。いまに、NASAの技術は、「セピア色の想い出」すらも人工的に創り出して売り出すようになるにちがいない。
しかし、そうなったときでも、わたしは、朝顔と呼ばれる大きなラッパが口を開けた蓄音機も大切にしたいと思う。そして、それ以上に、演奏の中味に心ふるわせたいと思う。 |