思えばわたしのJAZZ初体験は、きわめて不幸なものだった。いまから30年ほどまえ、小学生だったわたしは、家が電器屋だった関係で、そのころ売り出されはじめたステレオ装置と、それを買いに来る客をとおして、いろんな音楽と出逢い、いろんな音楽ファンの存在を知った。
そのなかには、もちろんMODERN JAZZのファンもいて、わたしに向かってこう言ったことを、いまも記憶している。
「現代にベートーヴェンが生きてたら、JAZZをつくり、JAZZを演奏するはずや。JAZZとは、そういう最高の音楽なんや、JAZZはテツガクなんや・・・」
近所に住んでいたそのおにいさんは、MODERN JAZZのLPレコードを何枚か手にしてわが家の店を訪れては、新製品の品定めをしていた。ボンボボン・・・とウッドベースが低く響き、サアーッササアーッ・・・とドラムをブラシが撫で、ピアノがメロディのない和音だけを繰り返す。そんな音楽を、JAZZファンのおにいさんは、目を閉じ、腕を組み、眉間に皺を寄せ、頭を垂れて聴き入っていた。
そして彼の横に座った小学生のわたしは、スピーカーから流れ出る音と、おにいさんの何やらテツガク的な渋面と、「ベートーヴェン」という言葉が頭のなかで混ざり合うのを意識しながら、MODERN JAZZとは、暗くて重くて、いかにも難解にして高尚なものである、という先入観を固定させてしまったのだった。
その結果・・・といっていいのかどうかはわからないが、高校生になってMODERN JAZZファンを気取り、バド・パウウェル、ソニー・ロリンズ、ジョン・コルトレーンのファンであることを自称し、校則で禁止されていたジャズ喫茶にも出入りし、レコード屋(昔はこういってましたね)でブルーノートのレコードの並んだコーナーに立ったりするようにもなったのだったが、いま振り返ってみると、それは、あきらかに、心の底からJAZZが好きになったからではなかったように思える。
早い話が、恰好を付けていただけのことだった。そのことにはじめて気づいたのは、大学時代にある友人から、ブルーノート・レーベルのジュリアス・ワトキンスのレコードを聴かされたときのことである。
フレンチホルンというJAZZには不向き(ベートーヴェン向き)と思える楽器の奏でる色彩豊かな音色と、スウィンギーなリズムは、理屈抜きの音楽の楽しさにあふれ、心の底からハッピーな気分を味わうことができた。以来、テツガクを抜きにしてJAZZに耳を傾けることができるようになったわたしは、バドもロリンズも、ベートーヴェンもワーグナーもシェーンベルクも、三波春夫も都はるみも、心の底から楽しめるようになった。
あのおにいさんは、いまも眉間に皺を寄せながらMODERN JAZZを聴いているのだろうか?
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