オペラは高級なもの、難しいもの、という思い込みから抜け出せない人には、二つの理由がある。
一つはオペラの音楽が「クラシック」で、クラシック音楽は高級で難しい、と思い込んでしまっていること。そして、意味不明の外国語(イタリア語やドイツ語)でドラマが展開すること。
「難しい音楽」に乗って「意味不明の言葉」が歌われるとなれば、それは、「高級で難しいもの」と思い込んでも仕方ない。
しかし、クラシック音楽といっても所詮はミュージック。ビートルズもマドンナも演歌もJポップも、すべてバッハの子孫、オタマジャクシのドレミファに変わりはない。
さらに「クラシック」と言っても、オペラ全盛の19世紀の音楽は、ハイドンやモーツァルトやベートーヴェンの古典派(クラシック)の音楽ではなく、ロマン派の音楽。
英語で言えば「ロマンチック・ミュージック」。つまりミュージカル『オペラ座の怪人』も、オペラ『カルメン』も、人間の心の葛藤や男女の愛憎を、自由にロマンチックな音楽で表したもの、という意味においては、同じなのだ。
オペラとミュージカルは、どう違うの?
という質問をよく受けるが、音楽によって物語が進行するという本質に違いはない。少々乱暴に言い切るなら「英語のオペラがミュージカル」とも言える。
英語のリズミカルな発音と抑揚は、流れるようなイタリア語から生まれたクラシック音楽とは相性が悪く、音楽に乗せて歌うよりも朗読のほうが好まれた。だからシェークスピアなのだ。
ところが、そんな英語がアメリカへ渡り、アフリカのリズムと出逢い、ジャズやブルースが誕生した。その音楽を使ってイタリアのオペラ(歌劇)やドイツのオペレッタ(喜歌劇)を真似て作られたのがミュージカル。ということは、『マイ・フェア・レディ』も『ウエスト・サイド・ストーリー』も『サウンド・オブ・ミュージック』も、『フィガロの結婚』や『カルメン』や『椿姫』と、本質的には変わりないのだ。
そんなミュージックにのせて歌われる中味も、けっして難しいものではない。
所詮、世の中は男と女。株価の低迷も政治の混乱も、男と女のホレタハレタ以上に重要なものとはいえない……という言い方もできる。古今東西を問わず、人間にとって最重要の問題は男と女の愛以外にない(もちろん、男と男、女と女の場合もあります)。
だからオペラのテーマも、男と女の愛の物語。女千人斬りで地獄に堕ちる物語(『ドン・ジョヴァンニ(ドン・ファン)』……も、若い恋人と危険な情事にふけっていた妙齢の御夫人が、恋人の前に現れた若い女性との愛に涙を流しながらも育んでやる物語(『ばらの騎士』)……も、浮気な女(運命の女=ファム・ファタル)と出逢って純情な婚約者を捨て、身を破滅させる男の物語(『カルメン』)……も、大金持ちの未亡人が周囲に群がる求婚者のなかから伴侶を選ぶ恋の鞘当ての物語(『メリー・ウィドウ(陽気な未亡人)』)……も、全ては男と女の愛憎劇。
オペラには、ありとあらゆる「愛のカタチ」が出現するのだ。
純愛、熱愛、盲愛、略奪愛、悲恋、邪恋、女狂い、男狂い、岡惚れ、よろめき、嫉妬、憎悪、淫交、乱交、三角関係、四角関係、近親相姦、加虐愛、被虐愛、屍体愛、露出症、フェチ……と、まるで「愛のカタチ」の見本市。
しかも、その(ほとんど)全てが、不倫!
外国語だからわかりにくい、なんて大嘘。男と女の愛の世界は、基本的に言葉など不要。そこでオペラは、必然的に音楽で語られるのだ。その音楽に酔い、身をまかせれば、男と女の愛憎の世界が目の前に展開する。だからオペラは、餓鬼には理解できない。
男女の心の機微を熟知した大人にしか理解できない「難しいもの」という言い方が出来るかもしれませんね。 |