オペラとは、台風のようなものである。
音楽や芝居はもちろん、舞踊も、美術も、照明も、衣裳も、さらに過去の伝統文化も、未来への実験も、ありとあらゆるものを呑み込み、舞台の上にぶちまける。
さらに舞台の外でも、カネや名誉から、嫉妬、憎悪、スキャンダルまで、ありとあらゆるものを巻き込み、台風並みのエネルギーで人々を翻弄する。
モーツァルトも、ワーグナーもリヒャルト・シュトラウスも、ヴェルディもプッチーニも、そんな台風を世の中に巻き起こした人物である。
近松門左衛門、河竹黙阿弥、鶴屋南北といった人物も、同じような台風を世の中に巻き起こした。浄瑠璃や歌舞伎は、疑いなく、「日本のオペラ」といえる。
そして三枝成彰も、いま、巨大な台風の目となりつつある。
なにしろ、「日本のオペラ」として最もパワフルな『忠臣蔵』に手をつけ、西洋音楽(クラシック)にしてしまったのである。「東」の台風に「西」のハリケーンを巻き込んだその作品が、巨大な暴風雨を巻き起こさないわけがない。
もっとも、台風もハリケーンも、その発生時には単なる熱帯性低気圧であるように、さほどパワーがあるものではない。モーツァルトの『コジ・ファン・トゥッテ』も、ビゼーの『カルメン』も、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』も、ヴェルディの『椿姫』をはじめとする諸作品も、初演時にはさほど巨大なエネルギーを発揮することはなかった。
再演に再演を重ね、あるいは改訂に改訂を重ね、はたまた新たな演出が次つぎと試みられることによって、あたかも台風が、太陽の熱や地球の自転をエネルギーに変え、徐々に巨大化するように、社会に対して長く大きな影響力を及ぼすほどの巨大なパワーを発揮するようになったのである。
残念ながら、西洋音楽が伝来した明治以来、それほどのパワーを発揮した日本のオペラは、存在しない。いかにも日本的な物語に西洋音楽をくっつけたオペラや、「前衛」と称して大衆を無視した実験的な作品は存在しても、何度も繰り返し上演されるなかで社会に影響をおよぼすほどの作品は、生まれていない。
音楽学者や業界人の評価は得ても、ワーグナーやヴェルディの作品のように、多くの人々を興奮のるつぼに巻き込むような作品は、出現していない。近松や黙阿弥や南北は、そのような暴風雨を巻き起こしたが、西洋音楽に手を染めた日本人は、まだそんな台風を生み出すまでにはいたっていない。
つまり、「真のオペラ」――台風のようにパワフルな作品は、日本では、まだ生まれていないのだ。
しかし、三枝成彰の『忠臣蔵』には、そのような「真のオペラ」に成長するパワーがある。
血湧き肉踊るようなダイナミックなリズム。心が締め付けられるような美しいメロディ。歌謡曲のように誰もが口ずさめる歌。討ち入りのドラマ。心中の悲劇。そして、切腹のカタルシス。さらに、官能的音楽の随所で顔をのぞかせる政治的葛藤。男女の愛と死。幻想と現実。音楽と言葉の融合と乖離――。
オペラの基本である大衆性を前面に押し出しながら、幾重にも解釈が可能な構造を有するこの作品は、今後さらに、巨大なエネルギーを蓄積し、大きな台風へと成長するパワーを秘めている。
今日、上演される「改訂初演」は、そのようなステージアップへの第一弾といえるだろう。それが、はたしてどんな暴風雨を巻き起こすのか。さらに、この先、どんな発展と展開を見せるのか?
まだ誕生したばかりの『三枝オペラ忠臣蔵』に接するわたしたちは、同時代人として、日本オペラ初の「オペラの成長」を見守ることになるにちがいない。
|