どんな男でも、やってみたい仕事が三つある。それは、連合艦隊の司令長官と、プロ野球チームの監督と、オーケストラの指揮者……という「常識」が喧伝(けんでん)された時代があった。
今から30〜50年前の話。私が15〜35歳の頃の話である。戦争を体験した人々が、まだ数多く元気に暮らしていた時代のことで、だから連合艦隊などという言葉も使われ、サッカーの監督でなくプロ野球の監督が選ばれたのだろう。が、それらの仕事をやってみたい理由は、「自分の命令一下、人々を思い通りに動かせるから」ということだった。
しかし、それって、本当?
もう10年くらい前のことになるが、ある有名なサッカーの監督と一緒に、ある指揮者とオーケストラの練習風景を見学したことがあった。それは、今思いだしても、吹き出したくなるような体験だった。
何しろ監督は音楽などそっちのけ。1時間以上もの間、隣に座った私に向かって質問を浴びせ続けたのだ。
……指揮者が入ってくる前に、オーケストラのメンバーは個人の練習を終えてるの? 指揮者が入ってくるときは、全員が拍手で迎えるものなの? 指揮者が指揮棒を振っても、それに従わないメンバーっているの? あ、いま、指揮者が音楽を止めたでしょ。それで何か指示したけど、指示通りに出来ないメンバーは、指揮者がクビにできるの? メンバーの座る位置は誰が決めるの? 指揮者が、それを変えたりできるの? あ、今、クラリネットのソロがあったけど、指揮者はアレを吹く人を、隣の人に変えたりできるの?……
そこで、マァそういうこともありますよねえ……指揮者とオケによって違うでしょうねえ……などと、曖昧な答えを返し続けた。が、彼の質問は止まらなかった。
練習時間は指揮者が決めるの? 長くずっと練習を続けてもいいの? 指揮者がサッサと練習をやめても良いの? どうしても上手く演奏できないメンバーがいたら、居残り特訓とかさせるの? それには指揮者も付き合うの? それとも、それはコーチが……じゃない、アシスタントの指揮者がやるの? メンバーの気持ちがダラケてると思えたら、指揮者はどうしてカツを入れるの? 指揮者がメンバーをリラックスさせたいときは、食事や酒に誘ったりすることもあるの? 指揮者が練習を十分やりきったら本番は指揮者なしでもやれるの? …………
我田引水とはいえ、彼のあまりの熱心さに気圧(けお)されて、私は書物から得た知識や、音楽家の方から直接聞いた話などを披露した。
トスカニーニという指揮者は、どうしても指示通りに弾けないオケのメンバーに腹を立て、指揮棒を投げつけて、目をケガさせたことがあるそうです。 怪我したメンバーは、マエストロの残してくれた傷だから光栄です……と答えたそうですが……まぁ、昔話ですね。
ベルリン・フィルのなかに、指揮者の物真似の上手いメンバーがいて、カラヤンは時々彼にそれを披露させてオケの緊張を和らげていたそうです。が、あるとき、彼がカラヤン自身の物真似をしたことで、カラヤンが急に不機嫌になり、しかし、そのあとの演奏は緊張感漂う見事なものになったそうです。
晩年のバーンスタインに、あるプロデューサーが3D立体映像で指揮する姿を録画したい、と申し出たことがありました。あなたが亡くなってからも、その立体映像を指揮台に立たせて、指揮をさせたいから、と。するとバーンスタインは、そのときのオーケストラは誰が練習させるのかね? と一言答えて、録画を拒否したそうです。……
そんな私の話を監督が聞いているうちに、その日のオーケストラとのリハーサルを終えた指揮者が、汗をバスタオルで拭きながら、監督のもとへ近づいてきた。二人は、そのときが初対面。笑顔で握手をして、挨拶を交わし……、
いやあ、指揮者もたいへんですねえ……、……そう見えましたか、でも、サッカーの監督のほうが、もっとたいへんでしょう、特に日本代表の監督なんかは……、いや、まあ、いろいろありますが……
……などという会話のなかで、監督から次のような言葉が飛びだした。
「指揮者って、魔法を使うものなんですねえ」
指揮者は、答えた。
「そう見えました? そう見てもらえたんなら、うれしいですねえ」
そして二人は、ユニゾンで、
「おんなじですねえ」
と口に出して、大笑いした。
神々の美しい栄光を讃えるところから生まれた音楽。神々の力強く美しい身体に近づこうとして誕生したスポーツ。
だから、両者が融合するのは当然だろう。が、そのどちらの指揮官(指揮者や監督)も、「魔法使い」でなければならないようだ。 |