ボローニャ・オペラの来日公演を見た。
演目はプッチーニの『ジャンニ・スキッキ』とマスカーニの『カヴァレリア・ルスティカーナ』。ジョルダーノの『フェドーラ』。そしてヴェルディの『ドン・カルロ』。どれも見事な舞台で、アリオ(ニンニク)のたっぷり効いたコテコテのイタ・オペの世界を満喫した。
ボローニャ歌劇のオーケストラのメンバーたちは、演奏を合わせようという気がまったくない−−としか思えないほど自由自在に音楽を奏でる。が、その音色が柔らかいうえに、個々の演奏家のだれもが、じっくりと遅いテンポに、たっぷりと情感を込めて、歌い、叫び、すすり泣く。CDで聴いたら「これはヤリスギやでぇ!」と吹き出すだろうが、ナマの会場で聴かされると、たまらない。
その美しい演奏は、ガーリックのタップリ効いたペペロンチーノのスパゲッティを、おなかいっぱい食べるような味わいで、少々食傷気味という声にも納得するが、そういう濃い味の大好きな私は、「ブラーヴォー!」を何度も叫んでしまった。
そのうえ、歌手がすばらしかった。
なかでも『フェドーラ』のタイトルロールを歌ったミレッラ・フレーニは最高で、歌手という領域を越え、堂々たる大女優の大演技に圧倒されてしまった。
共演のホセ・カレーラスも真摯で情熱的な歌いぶりで、「腐っても三大テナー」という言い方は失礼だろうが、いま売り出し中のホセ・クーラより、よほど中味の濃い歌唱で酔わせてくれた(『カヴァレリア』のクーラの歌唱と演技も将来のスター誕生を予感させるものだったが、決闘に行くシーンで、最後の高い音を延ばしながら走り去ったのには、少々ガッカリ。そこはやっぱり、♪アアアアアアアアアアーーーーーと、声を張り上げ終えてから去ってほしかった)。
ほかにも『ジャンニ・スキッキ』は現代演出がおもしろく、主役のファン・ポンスも貫禄十分だったし、『ドン・カルロ』でのニコライ・ギャウロフの朗々たるバス(フィリッポ2世)の歌唱も見事だった。
というわけで、横浜ベイスターズの38年ぶりのリーグ優勝も、西武と西友の大バーゲンも、JOMOカップでの柳沢のハットトリックも尻目に、スポーツの秋よりも芸術の秋に酔いしれたのだったが、これだけ連続して、おなかいっぱいイタ・オペを食べると、胸の奥のほうにちょいと不思議な感懐が湧き出すのを感じた。
その感懐を説明するには、まず、オペラの粗筋を紹介しておかねばならない。ジョルダーノ作曲の『フェドーラ』というオペラは、ロシアの皇女フェドーラの婚約者が、結婚式の前日に殺害される、という事件で幕を開ける。フェドーラは、容疑者と思しき伯爵のロリスに色仕掛で接近し、婚約者殺害の事実を聞き出すことに成功する。そこでロリスを逮捕投獄し、殺すよう官憲に密告するのだが、ロリスから詳しい話を聞くと、フェドーラの婚約者だった人物はかなりの遊び人で、ロリスの妻と密会していたことがわかる。
その密会現場を見つけたロリスが、思わず殺してしまった……という話を聞いたフェドーラは、ロリスに愛情を感じ、官憲に捕らえられないよう、彼と一緒に逃げる。しかし、スイスの山荘で愛の逃亡生活を続ける二人のもとへ、ロリスの兄と母が死んだ、という知らせが届く。それは、ある女がロリスの犯罪を密告したからだった。
「密告者は誰だ!」と怒るロリスに向かって、フェドーラは「その女性を許してあげて」と懇願するが、ロリスは許さない。そればかりか、話すうちに密告者がフェドーラ自身だったことを知り、激怒する。その瞬間フェドーラは、毒を飲んで死ぬ。そこで幕−−。
あまり有名でなく、上演回数も少ない作品だが、美しいメロディがふんだんに盛り込まれ、舞踏会の席でピアニストが独奏するそのピアノ音楽にのってフェドーラとロリスが二重唱を歌うなど、凝った趣向もあるうえ、フェドーラの揺れる女心など聴き所も多く、なかなかに素敵な作品である。とはいえ、この物語は、きわめて深刻で、暗い話である。
婚約者の不義を知らなかった女。妻の不倫を知らなかった男。婚約者を殺害された女。妻の不倫を知って思わず殺人を犯してしまった男。真摯な男性であることを知らずに、官憲に密告してしまった女。自らの犯罪から兄と母を失う男。愛する男の兄と母を死なせてしまった女。そんな女を愛してしまい、許せないまま自殺に追い込んでしまった男……。
嗚呼! なんたる悲劇!
しかし、オペラが幕を閉じた瞬間、悲しみの感情は、微塵も湧いてこなかった!
わたしの感情が特殊だから、というのではない。隣に座っていた私の女房など、喜色満面の笑みを浮かべて「すごい! すごい!」とキャッキャと喜び、拍手をするばかりか、カーテンコールで登場した歌手に向かって両手を振りまくっていた。ほかの観客も同じで、男も女も「こんな幸せな瞬間はない!」という表情で客席から立ちあがり、「ブラーヴォー!」と叫び、跳びはねていた。
すばらしいイタ・オペを見たあとというのは、だいたい、こんなものである。
イタ・オペの物語というのは、ヴェルディにしろプッチーニにしろ、だいたい主人公が死ぬ(もちろん喜劇は除く)。主人公が死ななくても、近い人物が死ぬ。何体もの死体が舞台にゴロゴロと転がる場合もある。早い話が、悲劇のオン・パレードである。
ところが、その死は心に残らない。歌手の見事な歌唱と演技、あるいはオーケストラの華麗な演奏、さらにゴージャスな舞台や衣裳……といったものばかりが、心に残るのである。
シェークスピアの舞台ではこうはいかない。『ハムレット』や『ロミオとジュリエット』の舞台を見た女性のなかには、ハンカチを握りしめて泣く人が少なくない。ハムレットやオフィーリア、ロミオやジュリエットの悲劇に涙するのである。
かなり以前の話になるが、学生時代に尾上松緑主演による『オセロ』を見たときも、客席ですすり泣く女性が少なからずいた(イヤーゴは日下武史だった)。が、ヴェルディのオペラ『オテロ』(「オセロ」のイタリア語読み)となると、様相はがらりと変わる。すすり泣く人が皆無とはいわないが、オテロとデズデモーナがベッドのうえで死ぬと、「ブラヴォー!」の嵐のなかで、ガッツポーズを見せる観客まで現れる。それは、<幸福とは他人の不幸のこと>と『悪魔の辞典』に書いたアンブローズ・ビアスの言葉を思い出したくなる光景である。
が、イタ・オペとはそんなものなのだ。
観客は、舞台上の人物に「同化」しない。物語に「同化」しない。悲劇の皇女フェドーラに涙しない。悲劇の指揮官オテロにも妻のデズデモーナにも涙することはない。彼女や彼の「悲劇」は、歌手やオーケストラの力量を最大限に引き出すための道具でしかないのだ。そして観客は、フェドーラやオテロの心理を見事に歌で表現した歌手に向かって「ブラーヴォー!」と叫ぶのである。
オペラの台本作家も作曲家も、そのことは心得ている。百も承知だ。だから彼らは、だれも、オペラによって悲劇の物語を観客に伝えようなどとは思っていない。歌手も、指揮者も、同じである。彼らは、主人公の心理を表現することによって、物語を伝えるのではなく、自分たちの音楽のすばらしさを伝えているのである。
オペラを創る側も、演奏する側も、観たり聴いたりする側も、すべての目的は「ブラーヴォー!」であり、その掛け声の多寡が評価のすべてなのだ。悲劇の筋書きは、ただ「ブラーヴォー!」の声を誘い出すための呼び水に過ぎないのだ。
それは、イタリア人の基本的気質に根ざしたもの、といっていいだろう。アルプスの南の暖かい太陽のもと、地中海の青い空と海を見ながら、豊かな食生活を楽しみ、「アモーレ! カンターレ! マンジャーレ!」(恋して、歌って、食べて)で生きることを理想とする陽気なイタリア人にとって、オペラとは楽しむものであり味わうものであり、人生をより楽しくする装飾品のようなものなのだ。
話は少々横道にそれるが、最近イギリス人のサッカー好きの若い作家と酒を飲んだとき、彼が、首を傾げながらいった。「ワールドカップに出場した各国の代表チームが、それぞれの国民性や民族の気質を表現していると言い方は、ほんとうに正しいと思う。ドイツは厳格になまでに組織的なプレイをするし、南米諸国は々荒っぽい個人プレイに走る。イギリスは紳士的といいながら隠れて荒っぽいことをするし、日本は真面目だし、韓国は技術より精神力を優先させている。でも、不思議なのはイタリアで、守って守ってカウンターで得点を取るという彼らの戦法は、どう考えても陽気なラテン系のイタリア人気質に反している……」
わたしも、その話を聞いたときはナルホドと思ったのだが、この原稿を書きながら、それもまたイタリア人気質の現れなのだ! と気づいた。なぜなら、守って、守って、守り抜いて、一瞬の敵のスキを衝いた逆襲で、アッという間に得点をあげるなど、メチャメチャかっこいいではないか! 「ブラーヴォー!」の世界ではないか! 「ブラーヴォー!」の局地ではないか! 舞台のうえで死んでいたオテロが、カーテンコールで生き返り、観客の大喝采を浴びるのと同じパターンではないか! 閑話休題−−。
というわけで、イタ・オペは理屈抜きにかっこよければ(歌と音楽がすばらしければ)それでいいのだ。
が、ドイツ・オペラは、そういうわけにはいかない。理屈が付きまとうのだ。 ベートーヴェンの残した唯一のオペラ『フィデリオ』は、副題に『夫婦の愛』とあるとおり、深い夫婦愛の物語である。
政敵のドン・ピツァロの陰謀で、国事犯として無実の罪で投獄された夫フロレスタンを救うため、妻のレオノーレは男装してフィデリオと名を変え、牢屋の番人ロッコの手下として働きながら夫に近づく。ある日、大臣でありフロレスタンの友人であるドン・フェルナンドが視察に来ることを知ったピツァロは、自分の悪行のばれることを恐れ、フロレスタン殺害を計画する。そして、殺害を実行しようと剣を抜いたとき、そこへ男装したレオノーレが現れ、「まず、彼の妻から殺せ!」と叫んで立ちふさがる。ならば、夫婦そろって…とピツァロが剣を振りあげたところへドン・フェルナンドが現れ、ピツァロの過去の悪行が暴かれる。
フェルナンドはピツァロを逮捕させ、政治犯の囚人たちを解放し、レオノーレとフロレスタンはしっかりと抱き合い、だれもが強い夫婦愛を讃えて……幕−−。
−−となるのだが、イタ・オペのように主人公が死ぬことはない。愛(夫婦愛)と正義が勝つハッピー・エンドの筋書きである。
物語のなかには、牢番のロッコの一人娘マルツェリーネが、男装したレオノーレ(フィデリオ)に心をひかれ、ロッコも真面目に働くフィデリオに娘を嫁がせたく思い、レオノーレは困惑し、マルツェリーネに恋心を抱く門番の若者ヤキーノは憔悴する−−といった挿話もある。が、三角関係がもつれるようなことはなく、物語は、フランス革命当時の理想「愛と正義の勝利!」を高らかに歌いあげ、音楽は、ベートーヴェンの『第九交響曲』のような大合唱で終わる。
これがイタ・オペなら、レオノーレがマルツェリーネに自分が女であることを打ち明ける。それを盗み聞きしたヤキーノが、ドン・ピツァロに伝える。ピツァロは、レオノーレに「オレの女になれ」と迫る。レオノーレは夫のフロレスタンの釈放と引換にピツァロの誘惑を受け入れる。しかし、スキを見てピツァロを殺し、フロレスタンと逃げようと思ったところが、夫は既に殺害され、それを知ったレオノーレも牢屋の塔から飛び降り自殺する……で、幕−−といった具合になるはずである(まるで『トスカ』だ!)。
しかし、ベートーヴェンのドイツ・オペラは、そうは進行しない。愛情が憎しみに変わることもなければ、不倫の危機もなく、もちろん、人が死ぬこともない。ベートーヴェンのオペラには、オペラによって伝えようとする「コンセプト」が存在し、それが「愛と正義の勝利!」という勧善懲悪的道徳であるため、「悪」を勝たせるためにはいかないのである。破局は、避けなければならないのである。人間の心の奥に存在する「悪」の要素にスポットライトを当てられないのである(ちなみにベートーヴェンは生涯独身だったので、夫婦愛も彼の想像した理想と言えなくもない)。
ドイツ・ロマン派オペラの幕を開けた作曲家とされるカール・マリア・フォン・ウェーバーも、そうである。彼の代表作『魔弾の射手』も、登場人物が死ぬことはなく、物語はハッピーエンドで終わる。
ボヘミアの若い漁師マックスは射撃の名手として有名だったが、射撃大会で敗れ、村人からからかわれる。森林保護官のクーニーからも、そんなことでは娘のアガーテを嫁にやれない、といわれる。そこで次の射撃大会では絶対に優勝しようと思い、悪魔に魂を売り渡した男カスパルから、百発百中の魔弾(悪魔の弾丸)を手に入れる。
ところが、射撃大会でマックスの放った魔弾は恋人のアガーテの胸に命中する。アガーテは、聖なる薔薇の加護によって助かり、魔弾はカスパルの胸を貫く。が、マックスは魔弾を使ったことから、領主オットカルに追放を命じられる。そこへ、隠者が現れ、マックスを弁護し、一年の猶予を与えて試練を乗り越えたらアガーテとの結婚を許してやるよう説き、オットカルもその言葉に従う。そして、人々が、その寛大な処置を讃えて……幕−−。
ドイツ的神秘主義のなかで、ドイツ的共同体のあり方を「お説教」するような物語だが、この物語でも(普通の)人は死なない(悪魔と手を結んだ悪人しか死なない)。ハッピーエンドの結末である。 作品の「コンセプト」(ドイツ讃歌)を肯定的に伝えるためには、物語を「悲劇」に終わらせることができないのだ。
重く雲の垂れるアルプスの北側で、粗食に甘んじながら森を切り開き、開拓を続けてきたドイツ人は、イタリア人のロッシーニのようなハチャメチャ・ドタバタ喜劇を楽しむゆとりなどなく、ヴェルディやプッチーニやジョルダーノやマスカーニのように「悲劇を楽しむ」わけにもいかず、オペラにも、きわめてコンセプチュアルな(観念的な)思想を持ち込んだのである。
このような「コンセプト」は、ワーグナーのドイツ・オペラにも引き継がれる。
ワーグナーのオペラの場合は、主人公クラスの登場人物が(主として女性が)死ぬことが多い。が、その「死」には、人生に悩み、迷える男性や、滅びゆく世界などを救済する「乙女の自己犠牲」という、大きな意味が含まれている。
イタ・オペのように、ふとした思い違いや、心のすれ違いから人が死に至るようなバカなことは、ドイツ・オペラには存在しない。強い愛が激しい憎悪に転じたための殺人や自殺というような、きわめて人間的な死も存在しない。ドイツ・オペラの(悪人や悪魔以外の)登場人物の「死」には、魂の浄化作用といえるような意味が存在しているのである。
そのような「理屈」は、ベルクの作曲した『ヴォツェック』のような二十世紀の現代オペラにも存在する。
小心者で少々精神障害のある兵士ヴォツェックは、上官に馬鹿にされても媚び諂うほど純朴な男で、医者から生活のためにカネをもらって生体実験の材料になるほどの貧乏だが、内縁の妻マリーを愛している。しかしマリーは、純朴なヴォツェックに心をひかれながらも、もう少し金持ちで普通の男性にあこがれる。そしてヴォツェックに悪いと思いながらも、鼓手長との不義に走る。それを知ったヴォツェックは、口論の末にマリーを刺し殺し、みずからも狂い、血のついた体を洗おうとして沼に入り、溺れ死ぬ。マリーの幼子は母親の死を知らされるが、何事かわからず木馬で遊び続ける……幕−−。
この悲劇の主人公を、精神薄弱者に設定しているところがいかにもドイツ的で、ベルクの無調音楽(メロディらしいメロディのない不気味な音楽)と相俟って、愛憎の絡んだ殺人劇が単なるメロドラマに終わらず、避けようのない人生、避けようのない悲劇、意味があるようでいて意味がなく、それだけに恐ろしい日常を表現した「不条理劇」に昇華しているのである。
普通の人間ならホレタハレタで殺人まで犯すものではない。そこには何か深い意味があるはずだ−−と、ドイツ・オペラ(ドイツ人)は、いいたげである。
そういえば、ドイツは、恋愛文学でも常に「思索的」である。若きウェルテルは、愛する人に向かって猪突盲進に進むのでなく「悩む」。シューベルトの歌曲でも、若き水車小屋の娘に恋した青年は、その恋に破れると死への旅路を歩む。
マーラーは、一生かけて、音楽で「人生とは何か?」ということを、問いつづけた。
ドイツ人は、悩む。考える。そして、救いを求め、人生を戦い、世界を変えようとする。もちろん、どれほど悩み、考えたところで、人間の生や死、男女の愛や憎しみに、回答など出るものではない。だからドイツ人は、多くの優秀な音楽家を輩出したともいえる。言葉で答えが出ないなら、音楽(という別の言語で)回答を得ようというわけである。
バッハも、ベートーヴェンも、シューベルトも、ウェーバーも、ブラームスも、ワーグナーも、ブルックナーも、マーラーも、ベルクも、シェーンベルクも、ウェーベルンも、音楽という抽象言語を駆使して、人生について、男女の関係について、世界について、宇宙について、神について、悩み、考え、音にした。
ところが、音楽という抽象言語もまた、回答を与えてはくれるものではない。それどころか、抽象的なだけに、いくら作曲者が深く悩み、重く考えようが、聴衆(観衆)は清々しいカタルシスを得る、という余禄を楽しむことができる。
つまり、ドイツ音楽(オペラ)にどれほど「コンセプト(意味)」があろうと、その音楽に酔えば、結局はイタ・オペと同じように「ブラーヴォー!」の世界にたどりつくのである。「意味」は、イタ・オペの「悲劇」と同様、歌手や演奏家の技量を引き出すための道具−−などとは、ドイツ人は断固として考えなかっただろう。が、オーケストラがジャーン……と轟き、テノールやソプラノが♪アアア〜と声を張りあげ、大合唱が鳴り響けば、聴衆の全身は、わけのわからない(意味のない)ほどすばらしい感動につつまれる、というわけである。
それこそ、台詞だけの演劇では味わえない、オペラのすばらしいところである。
LDやCDのドイツ・オペラには少々小難しい理屈の書かれていることが多い。が、そんなことはどうでもいい。言葉による理屈では十分表せないものがあるから、音楽があるのだ。ならば、音楽に身を任せればいい。そうすれば、ベートーヴェンやウェーバーやワーグナーやベルクの理屈も、意外とすんなりと心に染みとおるものである。
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