いよいよ、この連載も最終回。
過去11回にわたって、オペラとは、何も難しいものでなく、また、高級なものでもなく、映画や演劇、ミュージカルや歌舞伎、恋愛小説やスポーツ、それに、ロック・ミュージックやポップス音楽等々と、まったく同じように楽しめる「娯楽」である、ということを繰り返し力説してきた(本当は、そんなこと、力説なんぞしなくてもいい、当然のことなんですけどね)。
そして、イタリア・オペラ、ドイツ・オペラ、フランス・オペラ、ロシア・オペラ、現代オペラ、バロック・オペラを紹介し、プッチーニ、ヴェルディ、リヒャルト・シュトラウス、ワーグナー……といった作曲家のすばらしいオペラ、面白いオペラの数々、さらにヨハン・シュトラウスやレハールのオペレッタや、ジョージ・ガーシュインやオスカー・ハマースタイン2世、リチャード・ロジャースやレナード・バーンスタインなどのジャズ・オペラやミュージカルを紹介してきた。
これまでオペラといえば、少々取っつきにくいもの、自分とは無縁のもの、と考えておられた方々も、この連載を愛読していただけたなら、いまや完璧なオペラ通――とまではいかなくても、テレビのチャンネルをまわすときに、教育テレビやBSでオペラをやっているのにぶつかり、ちょっと見てみれば、なるほどオモロイもんじゃないか、そしたら一度見てみようか、DVDでも買ってみようか、という気になっておられるはずである。
そこで最終回の今回は、音楽史上最大の天才モーツァルトのオペラを取り上げて終わることにしたい。が、そのまえに、少しばかり、オペラの歴史についての話をしておこう。
普通の「オペラ入門」なら、こういうオペラに関する「教養」(知っているとうれしいけれど、知っていなくても困らない知識のこと)についての解説は、最初のほうで出てくるものである。
そして、オペラを「教養」としてとらえる人の知識欲をくすぐり、オペラを趣味とすることの「高級感」を醸し出し、オペラ・ファンとなることの「プライド」をくすぐるものである。
が、オペラなんて所詮は男と女のホレタハレタの物語であり、ワーグナーの『ニーベルンクの指環』は、ジョージ・ルーカスの『スター・ウォーズ』とまったく同じレベル――というスタンスをとっている小生は、そんな「教養」などハナからどうでもいいことと思っているから、これまでまったく触れなかった。
でも、まあ、知っておいても悪くない知識というものはある。という以上に、「オペラの歴史」というのは、ナカナカに面白い面がある。というので、少々説明させていただくことにする。
まず面白いのは、オペラというのはまったく不思議な芸術で、生まれた時と場所がはっきりとわかっているのである。絵画や演劇、舞踏や音楽といった芸術・芸能が、いったいいつ生まれたか、といっても、それは人類の文明の誕生した頃から、とでも答えるほかない。が、オペラには「誕生日」と「誕生の地」があるのだ。
ルネサンスと呼ばれる時代も終わりに近い西暦1597年のこと。イタリアはフィレンツェに住んでいたジョヴァンニ・ディ・バルディという名前の伯爵の家で、ギリシア古典劇の『ダフネ』を楽しもうというパーティが企画された。それは、古代ギリシアの文化に興味を持った「ルネサンス人」ならではのアイデアだった。
しかし、そのとき問題になったのが、音楽だった。古代ギリシアの古典劇のストーリーや台詞は、資料があるからわかる。が、古代ギリシアでどんな音楽を使っていたかはわからない。それじゃあ音楽は新しくつくろう、ということになって、詩人のオッターヴィオ・リヌッチーニ(1562〜1621)、作曲家のヤコボ・ペーリ(1561〜1633)、ジューリオ・カッチーニ(1545頃〜1618)といった当時の一流の芸術家に依頼して「音楽劇」がつくられた。それが「オペラ」誕生の瞬間なのである。
残念ながら、そのときの楽譜は残されていない。が、結構評判はよかったようで、それから3年後の西暦1600年に、もう一度ギリシアの古典劇に音楽をつけて楽しむことが企画され、今度は『エウリディーチェ』が上演された。この楽譜は最古のオペラ作品として残っている。
この二つの「音楽劇」(drama in musicaと呼ばれた)は、やがて大評判となって、いろんな場所で上演されるようになり、同様な作品が次々とつくられるようになった。そして、やがてそれがオペラ(opera
in musica)に発展した(operaとは、「作品」という意味のラテン語opusの複数形で、詩や台詞や音楽や舞踏や衣装や舞台装置など、様々な「作品」が一緒になっている「作品群」という意味である)。
ただ、このとき、大きな「間違い」が起きた。というのは、ギリシアの古典劇にあこがれたフィレンツェの「ルネサンス人」たちは、そのお芝居のストーリーが合唱団(コロス)による説明によって進行する、ということを知らなかったことから、主人公に最も大切な歌をうたわせ、独唱者を重視する作品に仕上げてしまったのである。
しかし、これは、すばらしい間違いだった。このとき、合唱よりも独唱を中心に据えてくれたおかげで、後の世でマリア・カラスも、パヴァロッティも大活躍することができ、我々も、その歌声に「ブラヴォー!」を叫ぶことが出きるようになったのだから。もしもこのとき、ギリシア古典劇に詳しい学者がいて、「コロスこそギリシア演劇の魂」などといいだしていたら、オペラの今日の人気はなかったかも……。
もっとも、この合唱から独唱への「劇の中心」の移動は、単なる間違いとも言い切れないと思える点がある。というのは、1597〜1600年という時期が、文化芸術の区分でいえば、すでに「バロック」と呼べる時代に入ってもいたからである。
バロックというのは、ポルトガル語で「歪んだ真珠」を意味する「バロッコ」から生まれた言葉で、古代ギリシアの端正な形式美を重んじたルネサンス様式の「古典主義」の次に、どんどんと華美な装飾がくっつきはじめた芸術の様式をいう。
要するに、バロック芸術は、より複雑に、厚化粧をはじめたのである。
そういう時代意識のなかで、詩だけでは満足出ず、音楽だけでも満足できず、詩と音楽を融合させ、さらに台詞も演技も加え、舞踏も加え……という意識が働いたに違いない。だから、ひょっとして、フィレンツェに住んでいた「ルネサンス人+バロック人」の「文化人」たちは、「ギリシアの古典劇はコロスが中心」といことを知っていながら、「主人公に思い切り歌をうたわせたほうが派手で面白い」と考え、確信犯的にギリシア古典劇とは違う形式を生み出したのかもしれない。
とにもかくにも、そんなふうにして生まれたオペラは、イタリア全土に広まり、「バロック精神」とともに、どんどん華美に、派手に、華やかに進化した。
そこで誕生したのが、カストラートという歌手である。それは、少年の美しい声(ボーイ・ソプラノ)をそのまま残すために去勢した歌手のことで、映画『カストラート』を見た方ならご存じだろうが、16世紀のイタリアで大流行したオペラは、女性の声をした美男歌手が小林幸子が紅白歌合戦のときに着るような衣裳を身につけ、雲をかたどったゴンドラに乗って舞い降りる、というような舞台で、その大スター歌手が(エルヴィス・プレスリーのように)舞台から投げるハンケチーフを観客が奪い合う、といった光景が展開された(小林幸子やプレスリーのパフォーマンスには、何ら「新しさ」はないのである)。
そうなると、オペラは、どんどん「スター化」する。「スター化」する、ということは、「ミーハー化」する、ということである。
これはシェークスピア翻訳家の小田島雄志さんに教えてもらったことだが、演劇ファンというのは、役者(スター)に注目する「ミーハー」と、演出に注目する「玄人」と、脚本(作品)に注目する「インテリ」に分類できるという。この分類は、オペラにはもちろん、他の芸術やスポーツにも当てはまるようだ。
もちろん、ミーハーが悪い、というのではない。美空ひばり、長嶋茂雄、エルヴィス・プレスリー、ビートルズ、エディット・ピアフ、マレー・ディートリヒ、ビリー・ホリデイ、ペレ、マイケル・ジョーダン、そして、マリア・カラス、ルチアーノ・パヴァロッティといった、それぞれのジャンルで超一流の実力を示し、超一流の活躍をした人々は、すべて「ミーハー受け」をした。もう少しきちんと表現するなら、多くの一般大衆に支持された。そのうえに、玄人筋やインテリからも評価を受けたが、彼らがスーパースターたり得たのは、「ミーちゃん、ハーちゃん」に受けたから、「ミーちゃん、ハーちゃん」に支持されたからに外ならない。
彼らより少しばかり実力の劣る一流の人々が、玄人筋に受けたりインテリに受けたり、あるいは単にミーハー受けだけしたのである。
だから小林幸子ばりの衣裳でボーイソプラノを張りあげる美男のカストラートたちが、ミーハーのオペラ・ファン(や王侯貴族)にワアワアキャアキャア騒がれたことは、けっして悪いことではない。
そうしてオペラは、ナポリでは独唱歌手のアリアを中心に、楽器の名産地である(優秀な職人が多かった)ヴェネツィアではオーケストラの発達とともに、発展した。また、カトリックの総本山のあるローマでは、あまりに世俗的な(カストラート中心の)作品が上演中止などの弾圧を受けた結果、合唱曲の表現形式が深まり(ミーハー・ファンの喜ぶスターは排除され)、オペラはいろんなヴァリエーションを伴い、全イタリアに流行。さらにフランス、イギリス、ドイツへと広がったのだった。
が、いつの世にも、「ミーちゃん、ハーちゃん」を嫌って、芸術を崇高なものと考える人たちがいる。また、そういう人たちが人間のつくりだす芸術を進化させる面があることも事実である。音楽の世界でのその代表がベートーヴェンで、自分の音楽が演奏されている最中に話をしていたご婦人方に向かって、彼は、「豚どもは、わたしの音楽を聴くな」といったらしい(音楽を聴きながら、少しくらい話をしても、いいじゃないですかねえ)。
オペラの世界でも、あまりにもスター歌手(カストラート)に人気の集まりすぎた現状を憂い、演劇(物語)と音楽の一致を訴える作曲家たちが繰り返し現れた。
18世紀のイタリアの、ニコロ・ヨンメッリ(1714〜74)やトンマーゾ・トラエッタ(1727〜79)といった作曲家がそういう主張を展開したのだが、彼らが、あまり有名ではない(後世に残る作品を創らなかった)のは、皮肉というほかない(オペラというのは、所詮は理屈で作るものじゃないのですね)。
しかし、その後、オーストリアにクリストフ・ヴィリバルト・グルック(1717〜1787)が現れ、彼らの理屈をさらに進化させ、劇的緊張感に充ちた(スター歌手による、劇の進行には不要で無駄な歌の存在しない)『オルフェオとエウリディーチェ』といった名作を残した(ドイツ系の作曲家は、理屈をもとに名作をつくるのが巧いのである、というより、理屈がないと作れないのかな?)
そして、演劇としての充実感と、音楽的レベルの高さが、同時にクリヤーされてこそ、はじめてオペラといえる……というような評価が一般化する時期に、大天才ウォルフガンク・アマデウス・モーツァルト(1756〜1791)が出現するのである。
それは、オペラの歴史(オペラの発展)にとって、これ以上はない、といえるほど幸運な出来事だった。
先に、オペラは全イタリアからフランス、イギリス、ドイツへと広まった、と書いたが、これは、あまり正確な表現ではない。たしかに、フランスでは、ジャン=バティスト・リュリ(1632〜1687)、ジャン=フィリップ・ラモー(1683〜1764)、イギリスでは、ヘンリー・パーセル(1659頃〜1695)、ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(1685〜1759)、それにドイツ圏にもグルックといった作曲家が現れ、今日までも残り、上演されるオペラを創った。
が、オペラといえばイタリアの芸術というのが当時の常識で、グルックのオペラをはじめ、ほとんどのオペラがイタリア語でうたわれ(原曲がイタリア語の歌詞で)、イタリア以外の国で上演されるオペラも、クラウディオ・モンテヴェルディ(1567〜1643)、ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレーシ(1710〜1736)、ニッコロ・ピッチンニ(1728〜1800)、ドメーニコ・チマローザ(1749〜1801)、ジョヴァンニ・パイジェッロ(1740〜1816)といった、イタリアの作曲家の作品が圧倒的に多かった(また、イギリスではシェークスピアの出現によって、演劇のほうが文化として発達した)。
そして、モーツァルトがウィーンで活躍したときの宮廷楽士長もイタリア人で(のちにモーツァルトの才能に嫉妬して彼を毒殺した犯人と疑われることにもなる)アントーニオ・サリエーリ(1750〜1825)だった。
そんな「イタリア文化帝国主義」ともいうべきオペラ界にあって、「塩の町(ザルツブルク)」生まれのモーツァルトには、文化的民族的なアイデンティティが存在しなかった。というのは、当時のザルツブルクではドイツ語が話されていたが、ローマ法王庁の直轄領であり、オーストリアのなかの独立都市のような存在だったのだ。
おまけに、子供の頃からピアニストとして天才的手腕を発揮したモーツァルトは、息子の技芸で一儲けしようと思った父親に連れられて、ドイツ国内はもとより、遠くイタリア各地をドサまわりの演奏旅行で訪れた。そして、当時大流行していたイタリア各地オペラにも触れた。
また、けっして裕福でない少年時代には、ドイツで流行しはじめていたドイツ語による音楽大衆演劇(ジンクシュピール)も、よく見た。
おまけにモーツァルトは、音楽史上初のフリー・ランサーの作曲家といえる存在だった。それまでの作曲家(音楽家)が、すべて貴族や教会のお抱え音楽家として生活を保障されていたのと違い、モーツァルトはある時期から、作曲の依頼を受け、お金をもらって音楽作品を創る(売る)という作業をはじめた。そのため、ピアノ独奏曲や交響曲から、オペラやレクイエムまで、じつに様々な依頼を受けることになり、それがモーツァルトの豊かな才能を引き出す要因になると同時に、オペラでも多様な作品を生む結果となった。
そんな体験や環境のなかから、モーツァルトは、イタリア語の喜歌劇(オペラ・ブッファ)も書けば、イタリア語のまじめな古典歌劇(オペラ・セリア)も書く。さらに、オーストリアでは主に宮廷劇場で上演されたオペラだけでなく、ジンクシュピールも書いて芝居小屋で上演し、ミーハー・ファンの人気も得る、といった具合に、無国籍化したオペラで、貴族の人気も、知識人たちの人気も、ミーハー人気をも獲得したのである。
彼の書いたジンクシュピール(『後宮からの逃走』や『魔笛』)は、のちのベートーヴェンやウェーバーに影響を与え、ワーグナー、リヒャルト・シュトラウスとつづくドイツ・オペラの基礎となった。
また、彼の書いたオペラ・ブッファ(『フィガロの結婚』『ドン・ジョヴァンニ』『コジ・ファン・トゥッテ』など)は、明らかにロッシーニに影響を与え、ベッリーニ、ドニゼッティ、ヴェルディ、プッチーニとつづくイタリア・オペラの発展へとつながった。
まさにモーツァルトは、ローマ帝国のような位置にある作曲家で、ヨーロッパの歴史がすべてローマに流れ込み、ローマから流れ出たように、オペラの歴史はすべてがモーツァルトに流れ込み、モーツァルトから流れ出たのである。
まあ、そういうことを知ったからといって、モーツァルトのオペラが楽しみやすくなる、というわけでもないのだが、いずれ多くのオペラに親しみを持ち、いろんなオペラを聴いたり見たりするようになったときに、さすがにモーツァルトにはオペラ音楽のすべてがある、ということに改めて気づき、さらにモーツァルトが好きになる、という意味では、知っておいても悪くない知識といえる。
その意味で、もうひとつ、モーツァルトの凄さを感じるうえでの知識として、脚本の凄さをあげておこう。
『フィガロの結婚』の原作者ピエール・オギュスタン・ボーマルシェ(1732〜1799)は、当時の大人気劇作家であり、『フィガロ』はロッシーニがオペラ化した『セビリアの理髪師』とともに、フランス演劇界ではモリエール以来の大傑作といわれるほどの作品だった。また、『ドン・ジョヴァンニ』(ドン・ファンの物語)も、当時のヨーロッパでは(ゲーテが戯曲化した『ファウスト』と同じように)超有名な伝説(伝承物語)で、フランスの大劇作家モリエールも戯曲化したものだった。
そしてその両者とも、脚本は、宮廷詩人でイタリア系ユダヤ人で、(好色な詐欺師として有名になった)カサノヴァの友人だったロレンツォ・ダ・ポンテ(1749〜1838)が執筆(『コジ・ファン・トゥッテ』は彼の創作)。ダ・ポンテは、のちにロンドンへ渡って劇場支配人を務めたあと、アメリカへ渡ってオペラのプロデュースに携わった後、コロンビア大学のイタリア語教授となった。
さらに、大衆音楽芝居として書かれた『魔笛』は、旅役者一座(大衆演劇団)を率い、みずから台本作家、演出者、役者として活躍していたエマニュエル・シカネーダー(1751〜1812)の依頼で、彼自身が書いた台本にモーツァルトが音楽をつけたのだったが、シカネーダーは、後の1801年に、今日まで残るすばらしい劇場アン・デア・ウィーン劇場を造り、支配人として活躍した。
要するにモーツァルトは、当時大活躍した一流の作家たちと共同作業をしたのである。それは当然のことともいえるが、ギリシア神話に毛の生えた程度の台本が多かった当時としては画期的なことでもあり、のちのオペラ作家たちが、フリードリヒ・フォン・シラー、ヴィクトル・ユーゴー、ウィリアム・シェークスピア、さらに時代が下っても、フーゴ・フォン・ホフマンスタールなどの超一流の作者の作品をオペラ化したことのきっかけをつくったといえる。
というわけで、大天才モーツァルトの残した傑作オペラを解説する余地がまったくなくなってしまったが、そんなことは、どうでもいい。見れば、いいのだ。聴けば、いいのだ。
これまでに、モーツァルトのオペラに接したことがないというひとや、オペラには興味はあっても見たことがない、というようなひとには、ピーター・セラーズ(「ピンク・パンサー」の役者とは同姓同名の別人)による現代版演出の『フィガロの結婚』『ドン・ジョヴァンニ』『コジ・ファン・トゥッテ(女はみんなこうしたもの)』のDVDを見ることをおすすめする。
セラーズの演出は、『フィガロ』がマンハッタンのクリスマス、『ドン・ジョヴァンニ』がサウス・ブロンクスの黒人街、『コジ・ファン・トゥッテ』がニュージャージー郊外の保養地を舞台に、現代劇として展開される。が、音楽や台詞に変更はなく、モーツァルトの残した作品のすばらしい(驚異的な)普遍性のおかげで、それらのオペラが、現代人にのわれわれにも、ビビッドな物語として伝わってくる。
そうして、『フィガロ』が『失楽園』以上のどろどろの不倫劇であり、『ドン・ジョヴァンニ』が女遊びにうつつを抜かすワルのプレイボーイの堕落劇であり、『コシ・ファン・トゥッテ』が「男と女のラヴゲーム」というほかない恋人交換スワッピング劇だとわかって存分に楽しめるようになったらシメタもの!(誰もが、そうなるはずだが)やがてオリジナルの演出による時代劇も楽しめるようになり、何より、モーツァルトの音楽の美しさに酔えるようにもなるはずだ。
そして、そうなれば、長い人生80年の間、失恋に悩もうが、離婚の危機に見舞われようが、リストラの脅威にさらされようが、モーツァルトのオペラさえ聴けば(見れば)心が和み、生きる力も湧いてくる。さらに、オペラにのめり込めば、憂き世の冷たい風も、笑い飛ばして暮らすことができる。オペラほどオモロイもんは、ほかにない。オペラは、好きにならんと、ほんまに損でっせ。ということで、長い間、ご愛読ありがとうございました。
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