島田雅彦は、オペラが好きだという。
いったい、なぜ、オペラなのか?
文壇の貴公子ならば、汚れたジーンズの上下でラップを踊るよりも、タキシードに身を包み、シャンデリアの光り輝くロイヤル・ボックスに腰かけるほうが似合う、というわけなのだろう。が、俗界の寵児としてベストセラーを連発するためには、エリック・クラプトン、エドワード・ヴァンヘーレン、イングヴェイ・マルムスティーンあたりのギター・テクニックか、あるいはキューバン・ミュージックあたりについて語るほうが多くの若い読者を味方につけることができるにちがいない。また、現代という時代状況を読むうえでも、そのほうが的を射た行為であるようにも思える。
しかし島田雅彦は、ロッシーニに狂喜し、ヴェルディやプッチーニを愛し、リヒャルト・シュトラウスやショスタコーヴィチに勃起する。そして《夫人は元帥がテロリストの青春時代を送っていた時に拝み倒され、妻になった》などという一文を、ぶっきらぼうに書き飛ばす。
リヒャルト・シュトラウスのオペラ『ばらの騎士』の舞台と音楽に、一度でも心を揺すぶられたことのある読者なら、この文章を読んで思わず含み笑いしたあと、作家の犀利(さいり)な想像力に「ブラーヴォ!」と叫ぶところだ。が、オペラと無縁な多数派の読者は、そこまで驚喜することはできない。
せいぜい「夫人」「元帥」「テロリスト」「青春時代」といた単語から、面白いシチュエーションではあるが、世の中にはありがちなことで、それが女の性(さが)であり男の性(さが)である・・・と思う程度である。あのエリザベート・シュヴァルツコップの、いや、元帥夫人の、青春時代の過ちに頬笑むこともできなければ、夫人の不倫を知ってか知らずか、クロアチアの森へ狩りに出かけたまま舞台に登場しない元帥の、若かりし頃に思いを馳せることもできない。
島田雅彦という作家も、《様々なタイプの男を知りつくしているはずのドンナ・アンナ(女ドン・ファン)は・・・》などといった具合に、いわずもがなの注釈をカッコをつけてまで書き込み、少しはマジョリティに阿る(おもねる)ときがある。それが「テロリスト」たる作家に時折「帝国の構成員」への転向願望が生じる結果なのか、あるいは「テロリスト」としての寂寞感から同胞を増やしたく思うためかは知らないが、それでも、モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』という大傑作を、ドンナ・エルヴィラではなく、ドンナ・アンナを軸にイメージを膨らませるという「テロル」のおもしろさを味わうには、やはり『ドン・ジョヴァンニ』というオペラに触れずに島田の作品を読むだけでは無理なことといえよう。
島田雅彦という作家に、芥川賞的直木賞的マーケティングなど期待できない相談だし、それこそ「帝国」に暮らすわれわれが、数少ない「テロリスト」のひとりを失うことにほかならない。だから島田が、いずれは年齢とともに「元帥」になってしまうにちがいないロックン・ローラーやヘビメタ・ギタリストやラッパーたちに熱をあげるのではなく、また、彼らの音楽とともにテロルもどきの青春時代を過ごし、やがてテロルの決算をしてしまうマジョリティを相手にポルノ小説を提供しつづけるのでもなく、オペラに走り、オペラからイメージを触発された作品を発表するのは、きわめて当然のことであり、喜ばしいことというほかない。
IMFに支配されたモスクワでボリショイ歌劇場のファサードをくぐり、ブランド・ファッションを買い漁る日本人観光客を尻目にミラノ・スカラ座のスカラ(階段)をのぼり、株価1万ドルのウォール街に背を向けてメト(メトロポリタン歌劇場)の巨大なシャンデリアの輝くアリーナ席に座る。そしてタキシードに身を包んだテロリストは、元帥夫人のスカートのなかにもぐり込み、ドンナ・アンナの股間を夢想する。
島田雅彦が、そんなふうにオペラと接するようになったきっかけは、おそらく少年時代にさかのぼる。それは、早熟で理屈っぽく、つむじ曲がりで孤立志向の少数派の少年にありがちなことで、子供ころにビートルズやローリング・ストーンズやグループサウンズを聴いても血を騒がせることなく、クラシック音楽と出逢ってどこか心惹かれる部分を発見し、ベートーヴェン、ドヴォルザーク、チャイコフスキー、シューベルト、バッハ、マーラー・・・と聴き進むうちに、やがて声楽曲に耳を傾けるようになり、そのうちオペラに・・・という事情があったにちがいない。
最近では、「三大テナー」などというグループが出現し、オペラも相当に大衆化した結果、いきなりヴェルディやプッチーニに触れ、そこからクラシック音楽へとさかのぼって聴き出す音楽ファンもいるようだが、オペラにまだまだ「高級」で「難解」というイメージが付与されていた時代(ほんの十数年前まで)は、『運命』『田園』『新世界』『悲愴』『幻想』等々から『レオノーレ序曲』『ロッシーニ序曲集』『タンホイザー序曲』『ジークフリートの葬送行進曲』等々にいたり、オペラを聴き始める・・・というのが、クラシック音楽ファンとなった早熟(文学)少年少女の歩む道だった。
そうして、いったんオペラの魅力にハマッたあとは、モーツァルトのオペラのなかに永遠の美を発見したり、ワーグナーの無限旋律のなかで永劫回帰の思想をテツガクしてみたり、ドビュッシーの言葉と旋律の一致から言語の限界を見出したり、ベルクの描いた二〇世紀の狂気を称賛したり・・・するのが、インテリ文学青年の歩む道筋だった。グレン・グールドの弾くバッハや、ピエール・ブーレーズの指揮するシェーンベルクや、あるいはセルジュ・チェリビダッケの指揮するブルックナーを語るのと同様にオペラを語るというのが、オペラ・ファンの到達点だったのだ。
それは、凡百の音楽評論家はもちろん、野村胡堂、五味康祐といったクラシック音楽マニアの大衆作家たちの歩んだ道筋でもある。要するに、オペラを西洋音楽文化の頂点と位置づけ、頂点ならば深遠なる真理が存在するはず、あるいは、その真理に到達するための意義深い人間の営みが存在するはず、という考えを前提に、オペラを語ったのである。
ところが、島田雅彦のオペラへの愛は、そのような道筋を歩まなかった。
島田は、グールドのバッハやブーレーズのコンテンポラリー・ミュージックにも耳を傾け、ショスタコーヴィチのニヒリズムにも酔うと同時に、ロッシーニのドタバタ・スラップスティック・オペラに熱をあげ、ヴェルディのスポーツ競技のようにより高くより大きく声をはりあげるアリアに「ブラーヴォ!」を叫び、絢爛豪華なプッチーニの舞台に拍手し、中年女性の生殖器から滴(しずく)のしたたり落ちるようなリヒャルト・シュトラウスのオペラを見ながらオナニーに耽るような態度でオペラを語るようになったのである。
それは、まあ、島田雅彦という作家が、ただの俗物の助平にすぎないということを示すだけのエピソードかもしれない。が、まあ、それだけでもあるまい。
島田雅彦は、みずからのステータスとして「オペラ、オペラ」と騒ぐのではなく、オペラという「怪物」のすべてを心の底から愛するようになったに違いない。
オペラが「頂点」であるかどうかはわからない(たぶん違うだろう)。が、それが「怪物」であることだけは確かである。
三島由紀夫は、次のように書いている。
《歌詞の言葉の意味内容と、音樂の與へる情感とは、相補ふものではなくて、重複してしまふ筈のものだ。言葉は音樂の冒涜であり、音楽は言葉の冒涜であって、言葉の持つロゴスは、すでに音樂の建築的原理の裡に含まれてをり、言葉の持つパトスは、音樂の情感的要素によって十分代表されてゐる筈なのである。その重複を敢えてし、矛盾を敢えてし、音樂的教養と俳優的技藝とをむりに結び合わせ、しかもロマン派特有の「巨大さ」に對する趣味をふんだんに盛り込み、舞臺藝術として一種の怪物を作りあげたのが、オペラといふものであり、かうしたオペラの利點と缺點を、宇宙的規模において厚かましくも展開したのが、餘人ならぬワーグナーであり、なかんずく彼の最高傑作「トリスタンとイゾルデ」である》(昭和三八年十月・ベルリン・オペラ来日公演プログラムより)
少々引用が長くなったのは、オペラ・ファンとなった三島の到達点も、やはりワーグナーだった(ロッシーニやヴェルディやプッチーニのイタリア・オペラではなかった)ということを紹介しておきたかったからである。
それはさておき、一五九七年フィレンツェの某伯爵の宮殿で、ギリシア悲劇の『ダフネ』を音楽付きで見てみたい、という貴族たちの欲望から誕生した"drama in musica"は、ウワバミのような貪欲さであらゆる表現形式を取り込み、大合唱にバレエも加え、舞台装置は巨大化し、衣装は豪華になり、オーケストラの楽器も増え、"opera in musica"へと成長した("opera"とはラテン語の"opus"=「作品」の複数形で、「オペラ」とは「音楽による作品群」という意味の略語なのである)。
少々余談になるが、最近、暇にまかせて、「オペラの魅力」といいうるものを思いつくままに書き出してみたところが、音楽の魅力、歌手の魅力、歌声の魅力、肉声の限界への挑戦の魅力、物語の魅力、演技の魅力、演出の魅力・・・等々から、アフター・ステージのディナーの魅力、ワインの味を高める魅力、異性や同性との出逢いの魅力、不倫に色を添える魅力、セックスを豊かにする魅力・・・等々にいたるまで、千二百六十九の項目を数えあげることができた(もちろん、その数は、いまも、ふと思いつくたびに増え続けている)。そのなかには、大歌手や大指揮者との丁丁発止の契約交渉の魅力、オペラ座経営のカネの動きの魅力、スポンサーから詐欺もどきの行為でカネを集める魅力、支配人と政治家の国家予算の奪い合いの魅力・・・といった政治経済にかかわる裏舞台の面白さも入っている。
つまり、スター歌手のワン・ステージのギャランティが数千万円にまでおよび、一晩一度の上演に億単位のカネが動くまでに肥大化したオペラは、単に表現形式のうえで拡張しただけでなく、人間のあらゆる営みをその内部に取り込み、オペラ座の外観の威容以上の一大帝国を築きあげ、現在もその帝国主義的覇権主義的拡張を全世界的に広げているのである。
ジャズにも、ロックにも、そしてクラシック音楽にも、これほど巨大な「帝国」を築くことは不可能だった。シェークスピアにもビートルズにも、マドンナにもマイケル・ジャクソンにも不可能だった。
島田雅彦が、「帝国」というテーゼの存在に気づいたきっかけがオペラだった、というわけではなかっただろう。が、オペラという「怪物」が見事なまでの「帝国」を築きあげていることに気づいた瞬間、島田はいっそうオペラを愛するようになったにちがいない。そして、ワーグナーのようなミエミエの帝国主義(それでいながら一九世紀的合理主義を色濃く残しているオペラ)よりも、ロッシーニのような、より巧妙で現代的といえるハチャメチャな帝国主義のほうを、より愛するようになったにちがいない。なぜなら、純粋な「テロリスト」として現代という時代を生きるためには、何よりも確固たる現代的な「帝国」が、まず必要となるのだから――。
島田の作品群を読んでわかるのは(という以上に教えられるのは)、人間の社会的営為はことごとく帝国主義的であり、人間の築く社会は、どんな小さな構成単位においてもフラクタル的に一つの帝国を形成する、ということである。さらに、そのような「帝国」のなかで、純然たる人間として生きるには、帝国主義に対するアンチ・テーゼとしてのテロリズムの実践者、すなわち「テロリスト」として存在するほかない、ということである。
ベッドのなかの男と女も、帝国主義的覇権争いを展開する。それに対するテロリストとしてのセックスのあり方が、はたして《射精にこだわらない》が《されるがままになっているわけではなく》、《膣の中を激しく泳ぎ回る。かと思うと》《脇腹にしがみついて隠れんぼのような真似をする》《肩を噛んだり、首を絞めたり》《勃起した死体のようにただ横たわっていたりする》というような、ドンナ・アンナのベッドに入ったハッピィ・プリンスのやり方なのかどうかは、わからない(この部分の表現など、他の現代作家のように、ただホモやレズビアンを持ち出すだけでは純正のテロリストを描いたことにはならないと読み切ってしまった作家の苦労が忍ばれますな・笑)。
「帝国」は、精緻に観察すれば描写もでき、考察もできる。そこで、ときに《帝国は夫人の子宮の中にすっぽりと収まっているようなものなのかな》などというアフォリズムもどきの表現を散りばめさせれば、文学としての体裁を整えることもできる。が、真の「テロリスト」を純化して示そうとすれば、それがこの地球上には未だ存在したことのないシロモノであるだけに、そうとうに困難な作業となる(じっさいわたしは、島田の作品群の「帝国」の描き方の見事さには何度も舌を巻いているが、納得できる「テロリスト」には、まだ出逢わせてもらっていない)。
ただ、島田雅彦は、「オペラ」という「帝国」のモデルとしては完璧な素材をいじくりまわすことに長けた作家だから、きっと近い将来、オペラをきっかけに、そうとうに純度の高いテロリスト像を打ち立ててくれることと期待している。
しかし、まあ、『ばらの騎士』を解体して『バラバラの騎士』にしてみたり、『ドン・ジョヴァンニ』の雌雄をちょいと逆転させただけで、「どんなアンナ」になるのだろう?と思うと、「こんな・・・そんな!」と驚かせてくれたり・・・。それだけでも、テロリスト作家・島田雅彦の面目躍如といえるのだろう。
(この文章のタイトルの一部である「どんな?あんな?こんな?そんな!」は、もちろんモーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」に登場する女性の名前(ドンナ・アンナ=島田雅彦の小説の題名)をパロッたものですが、最近、TVのCMソングの歌詞に出てきてびっくりしました。パクリやがって・笑)
|