過日、ある雑誌のインタビューを受けて、絶句してしまった。
「いちばんお好きな音楽を、一曲選んでいただけませんか?」
「一曲だけだなんて、選べるわけがないでしょう・・・」
一瞬、そんな回答が頭に浮かんだが、インタビュアーは、ソファから身を乗り出し、真剣な眼差しでわたしの目を見つめている。しかも、その目が美しい。
もしもムクツケキ男性のインタビュアーだったら、最初に浮かんだ答えを口にしただろう。しかし、かすかに香水の香りを漂わせながら微笑む笑顔は、わたしの心を素直にさせた。とはいっても「いちばん好きな音楽」とは困った質問である。
美空ひばり、都はるみ、森進一、ピアフ、グレコ、ミルヴァ、ビリー・ホリデイ、アニタ・オデイ、コルトレーン、山下洋輔、バッハ、ベートーヴェン、ワーグナー、マーラー、リヒャルト・シュトラウス、武満徹、ビートルズ、ピンク・フロイド、ヴェルディ、プッチーニ・・・果ては長唄の『勧進帳』まで頭に浮かんだが、次々と消えた。
やっぱりモーツァルトかな・・・。『ジュピター交響曲』か『クラリネット協奏曲』か『ドン・ジョヴァンニ』か・・・などと思いを巡らせているときに、ふと思い浮かんだ音楽があった。そして自分でも驚くほど素直に、その題名が口をついて出た。
「ストラヴィンスキーの『春の祭典』ですね」
わたしは、その咄嗟の回答に、いまも大いに満足している。
インタビュー(他人に話を聞く行為)とは、けっして「その人の本音を聞き出す行為」ではない(と、わたしは思っている)。
そもそも20年以上連れ添った女房の本音すらいまだにワカラナイのに、1時間や2時間のインタビューで、いったい何がワカルというのか。
しかも、本音というものがいったいどういうものなのか、本人にもワカッていない場合が多い。また、本音は隠される場合も少なくない。インタビューを受ける人間がカッコをつけて「別の本音」(つまり、ウソ)を口にする場合もある。
先のインタビューで、わたしの頭のなかに多くの作曲家の名前が浮かんでは消えたのは、自分でもわからなかった本音を探していたからでもあるが、どう答えたらカッコイイか、という邪念が働いたためでもあった。
もしも、そのとき、わたしがカッコイイ回答(インタビュアーの女性が「ステキ!」と思うような答え)を思いついていたなら、躊躇することなく、その回答を口にしていただろう。
インタビューによって「相手の人間がわかること」など、ほとんどないのだ。
とはいえ、先のインタビューでは、わたし自身が忘れていた本音に気づかされた。そうなのだ。わたしはストラヴィンスキーの『春の祭典』という音楽が、「いちばん好き」なのだ。
じっさい『春の祭典』の新しいCDが発売されたら必ずといっていいほど購入してきた。バーンスタイン、カラヤン、ブーレーズ、小澤の演奏はもちろん、マルケヴィッチ、アンセルメから、アバド、シャイー、ウェルザー=メストまで、あらゆる指揮者の演奏したCDが20枚以上、ずらりと棚に並んでいる。ベートーヴェンの交響曲でも4〜5種類ずつしか持っていないのに、これは異常といえるかもしれない。
べつに指揮者による演奏の違いを意図的に聴き較べてみようと思って買ったわけでなく、やはり、この音楽が「好き」なのである。
不協和音が鳴り響き、リズムが絶え間なく変化し、金管楽器が野獣のように咆吼し、木管楽器が一瞬美しい旋律を口ずさんだかと思うと、雷鳴のような打楽器が轟き、弦楽器の弦が切れるかと思うほどの激しいサウンドが波のようにうち寄せる。
冬が去り、太陽が輝き、山が新緑の青葉に覆われるムンムンとした春の熱気のなかで、若い男女が大地とセックスをする。そんな原始的なエロチシズムを想起させるこの音楽は、疑いなく、今世紀最高の音楽のひとつということができる。
音楽史のうえで、20世紀最大の出来事といえば、ジャズの誕生であり、ロックの発展といえるに違いない。が、バレエ音楽『春の祭典』の出現も、それらに劣らぬ大事件であり、偉大な出来事であり、ジャズやロックを世の中に引きずり出し、牽引したともいえるだろう。
1913年、パリのシャンゼリゼ劇場で初演されたときは、あまりの不協和音と変拍子の連続に不快感を催した観客が、一斉にブーングを叫び、会場は罵声と怒号に包まれ、その後も賛否両論に分かれた論評が一大スキャンダルに発展したという。
この音楽の出現とスキャンダラスな大騒動以来、20世紀の現代人は、音楽家がどんなパフォーマンスを試みようと、あまり驚かなくなった。どれだけ不協和音を響かせようと、どんな楽器を用いようと、まったくピアノを弾かないピアニストが現れようと、ヴァイオリンを脚で踏んづけて叩き割るヴァイオリニストが現れようと、さほど動じることはなくなった。
音楽には「面白い/面白くない」「素晴らしい/つまらない」という価値判断があるだけで、「善い/悪い」「理にかなっている/理にかなっていない」といったことはどうでもいい。『春の祭典』は、そのことを多くの人々に最初に気づかせてくれた音楽といえるだろう。
そのような「時代を変えたスゴイ音楽」は、ロシア生まれ(のちにフランス国籍、アメリカ国籍を取得)の作曲家によって創造された。それが、わたしには重要なことに思える。
『春の祭典』は、基本的には、まだ「国」も存在しなければ「民族」もない、原始の人類の雄叫びのような音楽である。
ロシア人の指揮者(たとえばフェドセーエフ)による演奏は、やはりロシア的な土の香りの漂う音楽になる。が、ときにはニューヨークの摩天楼が頭に浮かんだり、ヴァーチャル・リアルなTV画面のなかの出来事を思わせるような演奏もある。
わたしがこの音楽を聴くときは、ときどき縄文時代や古事記の神話の世界に思いを馳せる。どこか日本的な――というより、東洋の東の端にある島国的な臭いを感じるときもあるのだ。
そんな現代的で無国籍的な世界がイメージできるのも、東洋と西洋の間に位置するロシアという大地に生まれた作曲家によるものだから、かもしれない。
ということは、わたしの「いちばん好きな音楽」として『春の祭典』を選べば、あらゆる音楽を網羅したも同然、といえるのだ。バッハやベートーヴェンやモーツァルトによる過去の音楽も、イングヴェイや椎名林檎による現在の音楽も、さらに東洋の音楽も西洋の音楽も、おそらく未来の音楽も、あらゆる時代とあらゆる地域とあらゆるジャンルの音楽が、すべて『春の祭典』という世界のなかに包摂されているのだ!
――と、頭のなかで勝手に興奮していたら、インタビュアーが、こういった。
「あのう・・・、できれば、クラシック・ファン以外の方にもわかる音楽を選んでいただけませんでしょうか」
わたしはガクッと崩れそうになった。が、仕方ない。
ノンフィクション作品の中味よりもノンフィクション作家のほうに注目が集まることでもわかるように、インタビューを受ける人物よりもインタビュアーのほうに主導権があるのだ。
要するに、インタビューとは、インタビュアーが表現したいと思っていることを表現するために、インタビューする相手を利用する行為といえるのである。
「だったら、ホイットニー・ヒューストンの歌にしておきましょうか・・・」
「ホイットニー、いいですよね。わたしも大好きなんです」
わたしは、心のなかで、「当たり!」と叫んだ。
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この原稿を書いたずっとあとで(つまり最近になって)『春の祭典』の素晴らしい演奏のCDが発売されています。それはワレリー・ゲルギエフ指揮キーロフ歌劇場管弦楽団による演奏(一緒に入っているスクリャービンの『法悦の詩』も素晴らしい演奏です)。そしてファジル・サイのピアノによる『ピアノ版・春の祭典』です。ただし、ファジル・サイには自作のピアノ曲や室内楽を集めた『ブラック・アース』と題した素晴らしいCDがありますので、トップ・ページの『タマキのオススメ』ではこっちのCDのほうを紹介しておきます。 |