さて、いよいよ今回から、具体的「オペラ入門」の開幕である。
つまり、これまでオペラなんぞ見たことも聴いたこともないという人でも、この連載を読めば、オペラを見たい! 聴きたい!
という気持ちになり、推薦するビデオやCDを買いに走り、それを見たり聴いたりするうちに、オペラにハマリ、やがてオペラの大ファンとなり、80年もある人生を、退屈することもなければ飽きることも嘆くこともなく、オペラとともに楽しく過ごせるようになる−−というわけである。
学歴、教養等、一切不問。まあ、話の内容を理解するためには、字幕の日本語を読むことのできる力だけは必要だが、それも小学校の高学年程度の理解力があれば十分。「イタリア語の魅力がわからないとイタリア・オペラは理解できない」とか、「ニーチェを読まないとワーグナーのオペラはわからない」などと、それこそワケのわからないゴタクを並べる音楽評論家もいる。が、そんな言葉は、音楽評論家氏が、自分のなけなしの教養をひけらかしたいだけのこと。
オペラとは(どんなに難しそうに思えるオペラでも)つまるところ男と女(あるいは、時に男と男、女と女)のホレたハレたの物語でしかない(これは、けっして乱暴な言い方でもなければ、比喩としていっているのでもなく、実際オペラのテーマには、愛と恋の物語しか存在しないのだ)。だから、「恋する心」さえお持ちの方なら、誰だってオペラ・ファンになれるのだ。
それに、オペラには、どうして音楽がついているのか? どうして台詞を音楽に乗せて歌うのか?
それは、物語の内容を難しいものにするためではない。音楽は、物語を理解しやすくするためについているのだ。
たとえば、男が女に向かって「愛してる」といったとしよう。小説ならば、その言葉が「偽りの愛」なのか「純粋な愛」なのか、「不倫の愛」なのか「ほんの出来心の愛」なのか、「肉欲だけを目的にした愛」なのか「精神的な愛」なのか、あるいは、それらが「どのくらいの割合で入り交じった愛」なのか、相当のページ数にわたる文字を読まなければ理解することはできない。
また、芝居ならば、同じことを理解するために、役者の仕種や台詞の言い方に注目しなければならない。しかしオペラの場合は、音楽に乗って歌われるため、それが自然に理解できるようになっているのだ。観客であり、聴衆である我々は、ただ音楽に耳を傾ければ、それでいい。
そうすれば、甘美で官能的なメロディに全身が包まれ、陶酔の世界に誘われることもあれば、可憐で愛らしいメロディに、思わず頬笑むこともある。あるいは、「愛してる」という言葉の背後に、重く低く漂うメロディを耳にして、不吉な予感を感じることもある。
とはいえ、それらの音楽から感じられることを、「なるほど、この男はSEXがしたいだけなのだな」とか、「純粋に女を愛してるのだな」とか、「これは実らぬ愛だな」などと、言葉に置き換えて理解する必要は、毛頭ない。
この世の中の出来事には、言葉で言い表せないことが、山ほどある。なかでも、愛情や恋情は、言葉に置き換えにくい。異性に惹かれたときの純愛と肉欲のバランスや、それがなぜBという女性(男性)ではなく、Aという女性(男性)なのかという理由など、とうてい言葉でいいあらわせるものではない。
そこで、人間は、音楽というメディアを発達させた、ともいえる。言葉では表現できないことを、音楽のリズムやメロディやハーモニーであらわすことにしたのだ。
だから、オペラを見る人、聴く人は、オペラ(音楽付きの言葉)で表現された内容を、言葉だけに置き換えないほうがいい。言葉で理解しようとしないほうがいい。オペラの内容(オペラの筋書きではなく、オペラで表現されていること)を解説した言葉など読まないほうがいい。
ただ、音楽を聴き、音楽に身をゆだね、全身で陶酔すれば、音楽が、いわば、サブリミナル効果として、人間の複雑な愛情や恋情のすべてを教えてくれる(だから、イタリア語やドイツ語やフランス語を理解する必要もない)。そして観衆であり聴衆である我々は、オペラを見聴きして、喜んだり、怒ったり、泣いたり、笑ったり、驚いたりすれば、それでいいのだ。
それが「オペラを理解する」ということであり、要するに、オペラとは「楽しむもの」であり、楽しめばそれでいいものなのである。
オペラに用いられる音楽−−いわゆる「クラシック音楽」というもの自体を「難しいもの」と考えている人がいるかもしれないが、それも大きな誤解であり、誤った先入観である。アムロの歌もベートーヴェンの音楽も、どっちも、ただ耳を傾け、陶酔すればいいだけのこと。Puffyも、森進一も、モーツァルトも、素直に耳を傾ければ、どれも陶酔でき、素直に耳を傾けなければ(「奥田民生の音楽はパクリばかりでくだらない」とか「演歌は嫌い」とか「クラシックは難しい」というような先入観を抱いてしまうと)どんな音楽も楽しめるものではない。
その意味において、音楽のジャンルに「貴賤」などなく、「いい音楽」と「悪い音楽」の区別はあるだろうが、どんな音楽のジャンルも同等であり、「難解なもの」と「容易に理解できるもの」というような区別は、一切存在しないものなのだ。
そもそもオペラの音楽というのは、基本的に登場人物の心理の描写であり、あるいは舞台となる場面の情景の描写だから、交響曲や協奏曲といったクラシックの純音楽よりも、わかりやすいもの、楽しみやすいもの、俗っぽいもの、なのである。オペラのほうが交響曲よりも「高級」とか「難解」などとという考えは、断じて誤りであり、ヴェルディやプッチーニのオペラのアリアを口ずさむことのできる人よりも、ベートーヴェンの『第九交響曲』の合唱を歌える人のほうが圧倒的に多い、という日本の「音楽状況」は、甚だ奇妙なものというほかないのだ。
したがって、以上、少々長くなった前置きをまとめるなら、1)日本語が読める。2)恋愛に興味がある。3)音楽に素直に耳を傾けられる−−という三つの条件さえ整っている人なら(つまり、誰でも)オペラ・ファンになれる、というわけである−−。
というところで、「具体的オペラ入門」の幕を開けよう。
まず最初に、オペラとはじめて出逢う人に見聴きしてほしい作品として、小生が選んだのは、ジャコモ・プッチーニ(1858〜1924年)の3つのイタリア・オペラ『ラ・ボエーム』『トスカ』『トゥーランドット』である。
タイトルの『ラ・ボエーム』とは、「ボヘミアン」と呼ばれた若い芸術家たちのこと。『トスカ』と『トゥーランドット』は、どっちも主人公の名前であり、美貌の女性歌手と中国の姫君のことである。それらプッチーニの作品を選んだのは、美しいメロディが、オペラの全編にあふれんばかりに流れ出ているからであり、ハマリやすいからである。
ドイツ・オペラは、やはり少々堅い。それに(モーツァルトのイタリア語による作品も含めて)上演時間の長いものが多い。プッチーニの諸作品は、正味の上演時間が、だいたい2時間前後だが、ドイツ・オペラのポピュラーな作品は3〜4時間を要するものが多い。
メロディの美しさだけなら、ドニゼッティの『愛の妙薬』や『ランメルモールのルチア』といったオペラも入門用といえるが、戯曲としての筋書きが弱く、オペラに最初に接する人にとっては、幼稚で滑稽な感じがするに違いない。また、ヴェルディの『椿姫』『リゴレット』『オテロ』といった作品なら戯曲としての構成もしっかりしているが、プッチーニのほうがメロディ・ラインが流麗で、よりわかりやすい。早い話が、映画音楽やムード音楽に近い。
ディズニーのアニメ『わんわん物語』で、主人公の恋人どうしの二匹の犬がイタリアの町の路地裏でスパゲッティを食べる有名なシーンがある。そのとき背景に流れる名曲『ベラ・ノッテ』(美しい夜)と同じような奇麗なメロディが、プッチーニのオペラには次々とあらわれるのである。
この華麗にして流麗なイタリアのメロディ−−素晴らしいボンゴレ・スパゲッティを食べたときのような感触−−にハマッてしまうと、悲しい場面では胸がキュンと締めつけられ、涙が流れそうになり、楽しい場面では、自分も一緒に、♪ラリラリラア〜……と歌い出したくなる。要するに、平野レミさんが料理を作るときのノリに陥るのである(プッチーニの最も有名なオペラ『蝶々夫人』を除外したのは、オペラ入門者がビデオを見る場合、日本の衣装とイタリアのメロディが少々不自然に思えるからであり、プッチーニのメロディにいったんハマッてしまえば、その不自然さも気にならなくなるからである。だから『蝶々夫人』は、またいずれ別にとりあげることにしたい)。
プッチーニのオペラは、映画『月の輝く夜に』(この映画のタイトルは『ラ・ボエーム』第一幕の最後に歌われる美しい二重唱の歌詞をそのまま使ったものである)や、『ラスト・ソング』(この本木雅弘が主演したトレンディ映画でも、『ラ・ボエーム』のなかの美しいアリアが使われている)といった映画にも用いられているから、これまでオペラに無縁だった人でも取っ付きやすいはずである。
また、『ラ・ボエーム』には「なんと冷たい手」「私の名前はミミ」「ムゼッタのワルツ」といった有名なアリア(独唱曲)があり、『トスカ』にも「星は光りぬ」「歌に生き恋に生き」、『トゥーランドット』にも「泣くなリュー」「誰も寝てはならぬ」といった美しいアリアがあり、パヴァロッティ、ドミンゴ、カレーラスという「三大テナー」のコンサートで歌われたものもあるから、彼らのコンサートに少しでも興味を持ったことのある人にとっても、取っ付きやすいものといえよう。
(『トスカ』の「歌に生き恋に生き」は、かつて美空ひばりも歌ったことがある。また、美空ひばりが主演した昭和30年代の松竹映画『青草に坐す』の主題歌「お針子ミミーの日曜日」=黛敏郎・作曲=は、『ラ・ボエーム』の主人公のお針子ミミをアイデアにして作られたものである)。
では、ここで、プッチーニの三つのオペラの筋書きを紹介しておくことにしよう。
『ラ・ボエーム』(ボヘミアンたちの生活)は、パリのアパートの屋根裏で暮らす若い貧乏詩人(ロドルフォ)と、同じアパートに引っ越してきたお針子(ミミ)の恋の物語。クリスマスの夜、二人は出逢い、恋に落ち、同棲するようになる。が、肺病を病んでいたミミの治療費すら稼げないロドルフォは、ミミが金持ちの男のもとで暮らしたほうがいい、といいだし、二人は別れる。が、病気がいっそう重くなったミミは、死に際になってロドルフォのアパートを訪れ、愛する男に見守られながら息を引き取る。その二人の恋物語に、若い画家(マルチェッロ)と少々あばずれな女(ムゼッタ)の恋を絡ませ、さらに友人の音楽家(ショナール)や哲学者(コルリーネ)など、パリでの若者たちの生活を描いたオペラ。
『トスカ』は、ナポレオン時代のローマを舞台に、共和主義者の革命家の画家(カヴァラドッシ)と、彼の恋人である美貌の歌姫(トスカ)の物語。カヴァラドッシは、ある日、逃亡してきた友人の革命家を隠れ家にかくまう。トスカに横恋慕するローマの総督(スカルピア)は、カヴァラドッシを捕らえ、拷問を加えながら、彼の命を救うことと引き換えに、トスカに対して自分の女になるよう求める。トスカは、その取引に応じた素振りを示し、逃亡の通行証を手に入れると、スカルピアをナイフで刺し殺す。そして、カヴァラドッシと一緒に逃げようとする。が、カヴァラドッシを救うと約束したスカルピアの言葉は偽りで、カヴァラドッシは銃殺され、トスカも塔の上から身を投げ、自殺する−−という物語。
『トゥーランドット』の舞台は(おそらく清朝時代の)北京。絶世の美女の姫君(トゥーランドット)のもとへは求婚者が絶えない。が、「愛」を知らず、氷のように冷たい心の持ち主であるトゥーランドット姫は、三つの謎を解くことを条件に、それが解けない求婚者を次々と死刑台に送り続ける。そんな姫君を改心させようとして、ダッタン人の王子(カラフ)が謎に挑戦し、その謎を解き、姫君と結婚する権利を手に入れる。が、わがままな姫君は、なお結婚を拒否したため、王子は、「それなら翌朝までに自分の名前が明かされれば結婚はあきらめ、死刑台に上る」と、逆に謎をかける。トゥーランドット姫は、王子に遣えている女(リュー)を捕らえ、拷問を加えるなどして、名前を聞き出そうとする。が、王子を慕い続けてきたリューは、自殺することで名前を口にすることを拒否し、王子の命を救う。王子はトゥーランドット姫の冷酷な心を非難し、「愛」を教えるために自ら自分がカラフという名前であることを名乗る。翌朝、皇帝や民衆の前で、トゥーランドット姫は、王子の名前がわかったこと、その名前は「愛」であると発表し、王子と姫君は結ばれる−−という物語。
こうして筋書きを並べてみると、『トスカ』が最もドラマチックで、戯曲の構成としても充実している。一方、『トゥーランドット』は、メルヘンチックともいえるが、物語自体が少々滑稽であり、自己犠牲によって精神的な愛を貫く奴隷女のリューと愛に目覚めるトゥーランドット姫という女性の描き方は、今日ではナンセンスというほかないものである。
また『ラ・ボエーム』も、ロドルフォを愛する純情可憐ななミミが、ロドルフォにいわれるまま別れ、金持ちの男のもとへ走る、というのも少々理解しにくい矛盾した構成ではある。
が、とりあえず、そんなことはどうでもいい。プッチーニの美しいメロディに酔えば、そんなアナクロニズムも、矛盾も、まったく気にならなくなる。プッチーニの甘美にして流麗なメロディは、麻薬のような怪しさで、聴き手を別天地に誘ってくれるのである。
さて、プッチーニの音楽の魅力にハマリ、♪ラリラリラア〜……というメロディとともにトスカの悲劇に興奮し、ロドルフォとミミの別離やミミの死に際に涙し、さらにトゥーランドット姫の高らかに「愛」を歌い上げる声と豪華絢爛な舞台に胸をスカッとさせることができれば、あなたは、もう、立派なオペラ・フリークである。
それから先は、もっとイタ・オペを楽しもう、という気になって、ヴェルディの諸作品に手をつけるもよし、プッチーニの作品と同類ともいえるレオンカヴァッロの『道化師』、マスカーニの『カヴァレリア・ルスティカーナ』(田舎の騎士道)、チレーアの『アドリアーナ・ルクヴール』、ジョルダーノの『アンドレア・シェニエ』といったヴェリズモ(現実派)オペラと呼ばれる作品を楽しむもよし。また、モーツァルトの作品や、ワーグナー、リヒャルト・シュトラウスといったドイツ・オペラに挑戦してみるもよし。
プッチーニをきっかけに、いったん少しでも「オペラって面白いもんだ」と思えるようになったなら、あとは、どうとでもレパートリーを広げることができる。が、それだけでなく、「入門」のために手をつけた『ラ・ボエーム』『トスカ』『トゥーランドット』という作品とも、一生涯あきないほど、何度も何度も違う角度から「楽しみ直す」ことができる。それが(プッチーニに限らず)オペラの素晴らしいところでもあるのだ。
『ラ・ボエーム』では、ミミを純情なお針子として描くのではなく、自分の死に至る病気を知り、「死ぬまでに一度でいいから燃えるような恋をしたい」という思いで、自分から男に迫る積極的な(現代的な)女性として描いたハリー・クプファーの演出による舞台がある(ベルリン・コーミッシュ・オーパーの来日公演で上演された)。
また、舞台設定そのものを19世紀から現代のパリに移し、現代的美男美女(アメリカの連続TVドラマに出てきそうな顔つき)の歌手を集め、別離でもウェットにならないドライな恋人関係を描いたシドニー・オペラの名舞台もある(NHKのBSで放送された)。
どっちも、クリスマスのパリの雑踏を描いたときの舞台装置の素晴らしさなども含めて、最高の『ラ・ボエーム』といえるもので、ビデオが発売されてないのは残念だが、そのように、演出の違いで、オペラはまったく新しいもの、別のもののように「楽しみ直す」ことができるのだ。
しかも、歌手の(歌い方の)違い、指揮者の(演奏の仕方の)違いによっても、同じオペラが、まったく別物といえるほどに違ってくる。別掲のリストにあるマリア・カラスのトスカと、ティト・ゴッビのスカルピアによる『トスカ』(第二幕)など、舞台(映像)であることを忘れ、本物の悪漢が本当に美女を掻き口説いているとしか思えないほどの迫力(演技力)がある。
また、トスカニーニの指揮する『ラ・ボエーム』は、音楽が盛り上がるたびに指揮者が歌手以上に大きな声を張り上げて歌い出す(唸り出す?)というほど熱のこもった演奏で、イタリア・オペラの魅力を満喫できる(ほかにも、パヴァロッティとフレーニという大歌手の魅力を満喫できるカラヤン指揮のCD、イタリアの匂いがプンプンと漂うセラフィンやパッパーノといった指揮者の演奏など、『ラ・ボエーム』のCDには名演奏が多い。が、満足できるビデオのないのが残念!)。
そして『トスカ』にしろ『トゥーランドット』にしろ、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場の舞台(のビデオ)は、豪華絢爛たる巨大で美事な舞台装置を見るだけで、ホーッと溜息をつきたくなる。また、イタリア・ヴェローナの古代ローマの遺跡を利用した野外劇場で上演された『トゥーランドット』もある。
オペラは総合芸術。音楽、歌手、演出、衣装、舞台装置等、多くの要素が混じり合い、同じオペラ座の同じ指揮者と歌手と演出家による上演で毎日上演されても、日によって印象が異なるともいわれている。
それだけに『ラ・ボエーム』という一つのオペラを好きになり、それだけを繰り返し見たり聴いたりするだけでも一生楽しめるくらい、オペラには、味わい尽くせないほどの豊かな魅力が満ちているのである。(以下次号) |