最初にお断りしておく。この原稿で私は、ニューヨーク・フィルハーモニックの常任指揮者時代のレナード・バーンスタインが、いかに素晴らしい演奏を残していたか、ということを書こうと思う。が、すべては私がレコードを聴いて感じた以外に根拠のない主観であり、思い込みであり、思い入れである。したがって反論したくなる人もおられるだろうが、そう思われた方はこのCDを聴いていただければいい。そうすれば即座に、バーンスタインの指揮したニューヨーク・フィルハーモニックの演奏こそ、後世に残さねばならない名演であることに納得されるだろう。
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私がクラシックと呼ばれるジャンルの音楽を好きになったのは、音大のピアノ科を卒業した叔父の薫陶によるものだったが、東京オリンピックの開催される2〜3年前、小学4〜5年の頃からベートーヴェンやチャイコフスキーの音楽がたまらなく好きになった餓鬼は、一つの大問題にぶつかった。それは周囲の友人のなかに、誰一人として同好の士が見つからなかったことである。
それどころか、クラシック音楽が好きなどとわかると、草野球仲間からは「シスターボーイ」と蔑まれ、仲間はずれにされるに違いない。そんな強迫観念に取り憑かれるなか、ひたすら隠れキリシタンのように沈黙を続けていたある日、突如として救いの神が現れた。それがレナード・バーンスタインだった。
なにしろ彼は、当時大ヒットし、何年も連続して上映されていたミュージカル映画『ウエストサイド物語』の作曲者だった。若者なら誰もが感激し、小学生でも知っている『シャボン玉ホリデー』や『夢で逢いましょう』といった人気テレビ番組でも取りあげた音楽の作曲者が、クラシック音楽の指揮者でもある、というのは草野球に明け暮れるクラシック音楽好きの餓鬼にとっては、地獄で仏に出逢ったような素晴らしい出来事だった。
ヘルベルト・フォン・カラヤンという指揮者も何やらカッコイイ風貌をしていて、クラシック音楽とは全く無縁で、地唄や長唄のほうがポピュラーな京都祇園の商店街でもその名は知られていたが、どこかエラソぶって権威主義的なドイツ人の顔よりも、ミュージカルの作曲家でハリウッド映画スターのような顔つきのほうが、好ましかった。
私がレナード・バーンスタインという指揮者の大ファンになったのは、たったそれだけの理由だった。しかし、その選択は間違っていなかった。
最初に買ったLPレコードは、バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルハーモニックのドボルザーク『新世界交響曲』だった。映画スターの横顔がアップで写ったジャケット(裏は星条旗をはためかせた遊覧船が自由の女神像の前を航行している写真)に入っているレコードを、それこそ溝が擦れてなくなるほど繰り返し聴いた。我が家は電気器具販売商だったので、店頭に陳列されていたステレオを勝手にいじくって何度も聴いた。
親父やお袋には、「針がチビって売りモンにならへんやないか」と何度か注意されたが、それほど強く咎めるでなく、私は恵まれた環境を生かし、ベートーヴェンの『運命』『第九』、チャイコフスキーの『悲愴』、ストラヴィンスキーの『春の祭典』、マーラーの『巨人』『復活』、ヴィヴァルディ『四季』、さらにニールセンの『エスパンシーヴァ』など、小遣いが貯まればバーンスタインの指揮するものなら何でもかんでも、手当たり次第に買いあさった。
そんななかにショスタコーヴィチの『五番』も入っていた。中学二年くらいのときの出来事だったと思う。
しかも、その頃からFM放送で他の指揮者の演奏も聴くようになり、驚嘆とともに、ますますバーンスタインの指揮する音楽が好きになった。たとえば、『新世界交響曲』の第一楽章の序奏部を他の指揮者の演奏と聴き較べてみてほしい。新しい世界に直面して沈思黙考するバーンスタインの演奏に対して、他の指揮者の演奏は単なる序奏にすぎない。その違いくらい、餓鬼の耳にも理解できた。
さらにカラヤンとベルリン・フィルが来日して『運命』を演奏したのをテレビ中継で見たとき、第四楽章の冒頭がリピートされないことに仰天した。バーンスタインの演奏をスタンダードと思い込んでいる餓鬼には、そんな端折り方がゆるされるのか、とハラを立てた。そのうえ、コントラバスの音が聞こえてこないことにも苛立った。テレビ中継の限界なのかとも思ったが、あとになって、コントラバスを際立たせるのはバーンスタインの演奏の特徴と知って、ますますその演奏がカッコヨク思えた。
さらに『第九』の二重フーガのテンポの小気味良い速さも、みずからハープシコードを弾いた弦楽合奏による『四季』の颯爽たる響きも、初期のマーラーの溌溂たる爽快感も、すべて聴けば聴くほど本当に素晴らしいと思えるものばかりだった。
そのなかのひとつがショスタコーヴィチの『五番』だが、冒頭のチェロとコントラバスの響き、それに答えるヴァイオリンの響き。その四つの音を聴いただけで、背筋にびくんと電気が走るほどの演奏である。なぜ、これほどの迫力ある音が出せるのかは知らないが、これに匹敵する深みのある音の演奏はクナッパーツブッシュの指揮する『ワルキューレ』第一幕の冒頭くらいなもんじゃないかとまで思ってしまう。
そのショッキングなほどの冒頭の音につづいて、ほどよいロマンチシズムに満たされて、ダイナミックにたたみ込むように音楽が構築展開され、あっという間に第一楽章が終わる。と、ギャグとウイットに満ちた諧謔音楽の第二楽章。そして寒さと冷たさを痛々しいほど感じる第三楽章を経て、圧倒的な終楽章に雪崩れ込む。
その「ノン・トロッポ」と速度指定など無視した「激速」の「アレグロ・ノン・トロッポ四分音符=88」は、バーンスタインの直感から生み出されたものだろうが、これも『新世界』や『運命』を聴いていたときと同じで、この演奏がスタンダードと思い込んでいた餓鬼は、のちにムラヴィンスキーの演奏を聴き、そのテンポの鈍重なことと権威主義的重々しさにウンザリしたものだった(ムラヴィンスキー以外にも、この爽快な音楽を、権威主義的に、重々しく、敢えて良く言えば堂々と演奏している指揮者は大勢いますが……)。
そして、バーンスタインとニューヨーク・フィルハーモニックがヨーロッパとロシア演奏旅行を行った際(1959年8月3日〜10月13日)、作曲者のショスタコーヴィチ自身がステージに駆け上ってこのテンポの演奏を絶賛した、という紹介記事を読んで(たしかLPジャケットの裏に写真入りで紹介されていたと記憶している)、ナルホド、ソウダロウ……と、ぼんやり思ったものだった。ソビエト連邦といえども、音楽は「権威」よりも「爽快感」だろう……と、ほとんど深い理由なく思い込んだのだった。
ショスタコーヴィチが、スターリンやソビエト共産党相手に、どれほど恐怖と煩わしさに悩まされたかはさておき、バーンスタインの音楽に対する「直感」は、間違いのないものだと、まったく根拠はないけれど確信したものだった。
このバーンスタインとニューヨーク・フィルのロシア演奏旅行が、スターリンの死後のフルシチョフの雪解け時代のものだったということには、あまり大きな意味はないだろう。アイゼンハワー大統領が、そのチャンスを逃さずバーンスタインとニューヨーク・フィルを政治利用したとしても、別にそこには意味もなければ成果もない。ただ、そこには音楽的な真実があるだけだ。つまり「権威」よりも「爽快感」。クラシックだのミュージカルだのポップスだのジャズだのと、ジャンルは問わず、気持ちのいい音楽、聴き手をワクワクさせる音楽が、いい音楽なのだ。
バーンスタインの指揮するニューヨーク・フィルハーモニックの演奏には、そんな音楽が山ほどある。当時の『レコード芸術』誌や朝日新聞試聴室が、その素晴らしい演奏をほとんど推薦盤に選ばなかったのは、たぶん「権威」が感じられなかったからだろう。が、このショスタコーヴィチの『五番』だけは、たしか……、いや、そんなことはドーデモいい。聴けば、この演奏が圧倒的素晴らしいことは、誰の耳にも明らかなのだから。
私は、少々大人の落ち着きを感じさせる東京文化会館でも来日公演ライヴの録音よりも、この旧盤の演奏のほうが、ずっとずっと好きだし、ずっとずっと名演だと確信している。
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