「ラヴェルのボレロはスペイン音楽ではない」
そう言い切ったのは、ベルギーの「20世紀バレエ団」を率いてバレエ界に革命的旋風を巻き起こしたモーリス・ベジャールだった。
「ボレロ」とは18世紀から19世紀にかけてスペインで人気のあった3拍子の舞曲のことである。そして作曲者のモーリス・ラヴェル(1875〜1937)は、スペインとの国境に近いピレネー山麓に生まれた。それにラヴェルの母親は、工業技師としてエンジンの発明などで高名だったフランス人の父親が、鉄道建設のためスペインに招かれたときに結婚したスペイン人だった。
なのに、そんなラヴェルのつくった「スペイン舞曲の音楽」が「スペイン音楽ではない」と、ベジャールは断じたのだ。
「ボレロは暴力的なまでに激しく感情を露わにした抽象的な作品です。そこでは、東洋的な美しいメロディと、容赦なく苛酷なリズムとが、闘いと葛藤を繰り返します」
こう語るベジャールは、半裸の人間(メロディ)の踊りを中心に据え、周囲で徐々に人数を増す男たちの群舞(リズム)を配した振付で、世界中の音楽ファンとバレエ・ファンを熱狂させた。
この振付は「20世紀バレエ団」のスーパースターだったジョルジュ・ドンが出演もした映画(クロード・ルルーシュ監督『愛と哀しみのボレロ』)にもなり、御存知の方も多いだろうが、その意味するものは、まさに「メロディ」と「リズム」の「闘い」であり「葛藤」だったのだ。
では、その「リズム」と「メロディ」は、いったい何を「抽象」化しているものといえるのだろう?
もちろん音楽そのものが抽象的なもの(具体的なモノを指し示すのではないもの)だから、そんな意味づけは不要ともいえる。が、いろいろと考えてみるのも面白い。
美しいメロディは「心」で、苛酷な「リズム」は身体で、それが「人間」としてのハーモニーを目指しうるのか?
あるいはリズムは「空間の広がり」で、メロディはそこに生まれる目に見えない「エネルギーの揺らぎ」で、最後に両者が合体して「宇宙の誕生(ビッグバン)」となるのか?
どんな大きな発想も可能にしてくれる「ラヴェルのボレロ」は、たしかにもはや「スペイン音楽」とはいえず、宇宙や人間のすべてを呑み込むほどの巨大な音楽ともいえる。
しかし、そんな音楽が、スペインという地球上の一地域で生まれた民族音楽に基づいているという事実も、素敵なことに違いない。
スペインの音楽がそこまで大きく飛躍できるのなら、我々の身近な周囲にも、そんな素敵な要素が山ほどあるに違いないのだから…。ひょっとして、ラヴェルは、そんなメッセージを込めて『ボレロ』を作曲したのかも・・・?
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『ボレロ』を純音楽的に楽しむなら、それは巨大な協奏曲と考えることもできる。
ソロのメロディを奏でるグループが次々と変化し、それを周囲のリズム楽器群で包み込み、シンフォニー(交響曲)へと発展する。それはバロック音楽時代に流行したコンチェルト・グロッソ(大きな協奏曲=合奏協奏曲)の現代的発展型といえるかもしれない。
コンチェルト・グロッソとは、独奏楽器群(コンチェルティーノ)と全合奏(トゥッティ)が対置されて協奏する形式で、18世紀後半になると、協奏曲と交響曲の中間的なジャンル(どっちの面白さも共有する音楽)として、パリやマンハイムで流行したという。
モーツァルト(1756〜1792)は、1777年から79年にかけて当地を旅行し、そこで触発されてつくったのが『ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲K365』だといわれている。
当時23歳のモーツァルトは、既に交響曲を約30曲、ピアノ協奏曲も約10曲、それに5曲のヴァイオリン協奏曲も完成しており、天才の若さがみなぎる最初の円熟期を迎えていたように思える。
そんな時期に作曲された『協奏交響曲』はバロック的な協奏の面白さに、異国情緒も漂うロマンチックなメロディや建設的でダイナミックなシンフォニーの要素が一体となった名曲で、その「協奏」と「交響」の面白さは、ある意味で「ラヴェルのボレロ」の原点といえるようにも思える。
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今日の演奏会で最後に演奏されるのは、エクトル・ベルリオーズ(1803〜1869)の『幻想交響曲』。この曲には有名なエピソードがある。
1827年、パリのオデオン劇場でシェークスピアの芝居を見たベルリオーズは、そのときオフィーリアとジュリエットを演じたイギリスの大女優ハリエット・スミッソンに熱烈な恋心を抱いた。
が、ハリエットは、そんなベルリオーズの心を無視してイギリスへ帰国。その絶望感からつくられたのがこの曲だ。
女性に対する憧れと不安に悶々としている若い芸術家(ベルリオーズ)が一人の素敵な女性(ハリエット)と出逢い、恋心を爆発させる(第1楽章「夢〜情熱」)。
その恋人と再び舞踏会で巡り会う。が、恋人は多くの人々のなかに紛れて消えてしまう(第2楽章「舞踏会」)。若い芸術家は田園へ赴く。平和な風景のなかで牧人の吹く角笛に耳を傾けていると心はなごむが、恋人の面影は消えない。日没になると遠くで雷鳴が轟き、孤独感が増す(第3楽章「野の風景」)。
夢のなかで恋人を殺してしまった若い芸術家は、死刑を宣告されて断頭台へと引かれてゆく(第4楽章「断頭台への行進」)。地獄に堕ちた若い芸術家は、魔女たちの饗宴に参加している幻覚に襲われる。悪魔や怪物が叫声を張りあげて乱痴気騒ぎを繰り広げ、若い芸術家の埋葬を祝う(第5楽章「ワルプルギスの夜の夢」=ワルプルギスの夜とは、4月30日の夜、魔女たちが集まって夜を徹して饗宴を楽しむというヨーロッパに古くから伝わる伝説)。
ひとつ断っておくと、ベルリオーズはその後ハリエットとめでたく結婚している(その立会人の一人に、大作曲家リストも名前を連ねている)。が、ここまでイマジネーションを広げることができないと「芸術家」たりえない、というべきか・・・。
いや、それよりも、この『幻想交響曲』が、ベートーヴェンの『第九交響曲』が作曲初演された1824年のわずか6年後につくられたことに注目すべきかもしれない。
あれほどの大曲、あれほどの名曲が発表されたあとの音楽家は、おそらく狂気といえるほどのロマンチシズム(発想の爆発と形式の破壊)に走るほかなかったのだろう。
そしてベートーヴェンの死後わずか3年目に、多彩で数多くの楽器(チューバや何台ものハープ)と新しい奏法(ヴァイオリンの弦を弓の背=木の部分で掻き鳴らすなど)を駆使した「狂気の音楽」を創りあげたベルリオーズは、その後のロマン派音楽から現代音楽へ、さらにジャズからロックまで続く「音楽の新しい扉」を押し広げたのだった。
そのような「新しさへの試み」という伝統は、フランス音楽のなかに引き継がれ、ドビュッシーからラヴェルへと受け継がれた・・・。
いやはや、こうして解説を書いてみると、クラシック音楽の面白さに、自ら改めて気づく。今日まで残っている古い時代のもの(すなわちクラシック)は、誕生当時に斬新で革命的だったことはもちろん、いまも新しさを失わず、われわれを驚かしつづけてくれるのだ。
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